金田一耕助ファイル14    七つの仮面 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  七つの仮面  |猫館《ねこやかた》  |雌《め》|蛭《ひる》  日時計の中の女  猟奇の始末書  |蝙蝠男《こうもりおとこ》  |薔《ば》|薇《ら》の別荘    七つの仮面      一  ——いまになってもひとはあたしのことを、どうかすると、聖女のように見える——と、いってくれる。  もし、そうだとすると、人間の過去って、ぜったいに塗りつぶしてしまうわけにはいかないもののようですわね。いいえ、聖女だなどといわれたからって、あたし、ちっとも|己《うぬ》|惚《ぼ》れなんかしないし、また、かくべつうれしくもなんともない。  あたしみたいにすさんでしまったヤミの女が、聖女のように見えたところで、いったい、どういうご|利《り》|益《やく》があるというのでしょう。  両手を血でけがされた|呪《のろ》わしい罪の女……恐ろしい殺人犯人の|烙《らく》|印《いん》をおされたこのあたしが、聖女だなんてチャンチャラおかしくって。……だいいち、それではいかがわしい、夜の商売のさまたげになるばかりではないか。  でも、ひとがあたしのことを、どうかすると、聖女のように見えるというのも、かならずしも故なきことではないかもしれない。  そうなのです。  その昔、あたしにも聖女のように|潔《きよ》らかな時代があったのです。もっとも、こんなことはいまさら、事新しくいうまでもないことかもしれないわね。どんなにすさんだあばずれ女だって、生まれたときはみな一様に、清い体をもっていたんですものね。  でも、あたしの場合は少しちがっている。己惚れたことをいうと、|嗤《わら》うひとには嗤われたってかまわない。あたしはじっさい、聖女と呼ばれ、もてはやされた時代があったのです。  この恐ろしい、血みどろな物語に突入するまえに、あたしはここにちょっぴりと、自分の生い立ちを話しておくことにしよう。  あたしの生まれは横浜でした。いいえ、横浜といったところで市内ではありません。市から少しはずれたところ、そう、横浜というよりは神奈川県といったほうがいいかもしれない。  おうちは|牧場《ぼくじょう》をやっていました。ホルスタインの乳牛が、二十頭以上もいたのです。これをお読みになるかたは、たぶん、映画や小説で、牧場の生活を知ってらっしゃるでしょうけれど、じっさいに牧場生活をしたひとは少ないでしょう。  ああ、いま思い出してもあのころの生活の幸福だったこと!  新鮮な空気に|香《か》ぐわしい牧草の|匂《にお》い。ものうげでまた健康そうな乳牛の鳴き声。……あたしはそういうところで生まれ、そういう環境のなかで育ったんです。いまはもう、こうしてすさみにすさみきったあたしだけれど、眼をつむればありありと、|瞼《まぶた》の裏にその時分の|景《け》|色《しき》がよみがえってくる。……  おうちのそばには、ゆるい傾斜のひくい丘がありました。  丘にはいつも青々とした牧草がしげっています。その丘の斜面に黒い|斑《ぶ》|点《ち》のあるホルスタインの乳牛が、しずかに牧草をたべています。  あたしたち、あたしと父はいつも朝早く、バケツをさげて、|氷枕《こおりまくら》のようにふくらんだ乳牛の乳房をしぼってやるのです。バケツのなかに新鮮な牛乳が、|泡《あわ》を立ててみちあふれるとき、あたしたちはこの上もない幸福を味わうのだった。  母のない|淋《さび》しさをのぞいては、ほんとうにみち足りた生活というのは、あの時代のことをいうのだろう。母がないだけに父とあたしの愛情は、この上もなく|濃《こま》やかで、父と娘というよりは、どうかするとお友達のような屈託のない親しさに結ばれていたのです。  小学校を出ると、あたしは横浜市内にある女学校へ通うようになりました。その女学校というのは、フランス系のカトリックの学校で、あたしはそこで、それはそれは|潔《きよ》らかな教育をうけ、この上もなく幸福だったのです。  先生がたはみんなあたしを大事にしてくださいましたし、あたしが低学年にいるあいだは、上級生がよってたかって可愛がってくださいました。そしてまた、あたしが上級生になると、こんどは幼い下級生のひとたちが、われがちにと、きそってあたしを|慕《した》ってくれたものです。  それというのが、あたしがとても美しかったからです。いえいえ、美しいのみならず、気品にとみ、なおその上に、聖女のように潔らかだったからでした。その時分のことなのだ。あたしが聖女と呼ばれていたのは。……  おお、|娼婦《しょうふ》ミサよ。  おまえはなんだっていま時分、そんなつまらないことをいいだしたのだと、|嗤《わら》うひとは嗤ってもよい。現在のような卑しい職業におちぶれたあたしが、なんで過去を誇りかに語ってよいものだろう。昔をいまになすよしもないことは、だれよりもよく知っているあたしですもの。  ただ、このことを語っておかぬと、これから述べようとする|山内《やまのうち》りん子との関係が、よくわからないだろうと思うからです。  おお、りん子、可哀そうな山内りん子!  その当時のあたしの数多い崇拝者のうちでも、山内りん子ほど熱烈な愛情を、あたしに示したものはほかになかった。  りん子はあたしより三つ年上だから、あたしが最上級生になったとき、むろん学校は卒業していたのだけれど、幼くして孤児になった彼女は、この学校のフランス人の尼僧にひろわれ、給費生として教育をうけてきたのだった。  したがって、学校を卒業したといっても、彼女は自由に学校からはなれることを許されなかった。彼女はフランス人の尼僧たちから、ひきつづいて特別の教育をうける一方、低学年の生徒をうけもたされていた。  いや、いや、りん子はかりに学校から、はなれる自由をあたえられたとしても、おそらくそこにふみとどまっていただろう。なぜならば、彼女はおそろしく|頭脳《あ た ま》のよい女だったが、一方かなり醜い女でもあったからです。  りん子は強度の近眼で、度の強い|眼鏡《め が ね》をかけており、赤茶けた髪の毛は、彼女のとおい先祖がインドネシア系であることを示すように、おそろしくちぢれていた。  これだけでもりん子は、自分の育った学校以外の世界へ、出ていくことを好まなかったであろう。なおその上に彼女は、男のようにいかつい体をしていて、そこには女性らしい体臭や魅力は、|微《み》|塵《じん》も感じられなかった。その代わり、古臭い、因習的なミッション・スクールの壁のなかに閉じこめておくには、これほど格好な存在はないと思われました。  だが、こう書いてきたからといって、あたしはかならずしもこの女を、見るにたえない醜怪な存在だというのではない。赤茶けたちぢれっ毛と、度の強い眼鏡の印象があまり強過ぎるので、だれでもひとめ彼女を見た|刹《せつ》|那《な》、醜い女だときめてしまうが、よくよく注意して見ると、これでも相当チャーミングなところがあるのが発見されよう。  まず、だいいちに色の白いことである。色の白いは七難かくすというが、この色の白さが、大きくて節のある鼻や、出目金のようにとびだした目玉の醜さをすくっており、かえってそれが|愛嬌《あいきょう》にさえ見える。ちぢれっ毛はべつとしても、顔全体の造作はなるほどみにくい。  しかし、りん子の醜さは無知な女の醜悪さとはちがっており、うちにやどる|叡《えい》|智《ち》のかがやきが、醜さをたぶんにカバーしていた。女としては広すぎるひいでた|額《ひたい》や、小羊のようなやさしさのなかにも、おりおり、ひらめく情熱的な|瞳《ひとみ》の色にも、知性からくる美しさが感じられないでもないのでした。  山内りん子はあたしがまだ下級生でいる時分から、全身全霊をかたむけて、あたしに傾倒し、|憧《どう》|憬《けい》し、そして奉仕するのでした。その|強《ごう》|引《いん》でひたむきな愛情は、はじめのうちあたしを|怯《おび》えさせ、ふるえあがらせるくらいはげしいものでした。  幼いあたしはなんど彼女の吐く情熱的な求愛の言葉や、熱烈な魂の告白を書きつらねた手紙に、怯え、おののいたかもしれません。  それというのが、彼女の言葉や素振りのなかには、女の学校によく見られる、ありふれたS関係をのりこえた……つまり、単なる手紙のやりとりや、プレゼントの交換だけでは満足しないていの、なにかしら、肉の衝動というようなものが感得されたからなのだ。  しかし、結局、彼女の強引さがすべてを征服してしまいました。あたしの周囲に群がりよる、おびただしい賛美者や崇拝者を、りん子はことごとく撃破して、とうとうあたしを独占してしまいました。  それは彼女の思いたったら貫きとおさねばやまぬという、強い意志の力によるものですが、もうひとつにはあたし自身が、彼女の|明《めい》|晰《せき》な頭脳に、しだいに心をひかれていったからなのだ。  当時、山内りん子は学校はじまって以来の|才《さい》|媛《えん》とうたわれていました。彼女はあらゆる学科を通じて、ズバ抜けた成績を示した上に、文才豊かに、また|詩《しい》|歌《か》にも|堪《たん》|能《のう》でした。  熱烈な思いをこめてよこす彼女の手紙の文章は、他の上級生たちのそれと比較にならぬほどみごとなもので、流るるように|澱《よど》みのない|詞《し》|藻《そう》は、幼くて、たぶんにセンチメンタルな少女の胸を、かきみだすのに十分だったのだ。  ただ、それらの文章のなかから、ときおり放つ肉の香り、ひそやかな性へのいざないには、あたしはいつも不安の胸をふるわせるのだったが、それもいつか好奇的な誘惑となって、いっそう強くあたしの心が、彼女のほうにひきつけられていったこともいなめないだろう。  しかし、そこはもとより戒律きびしいミッション・スクールのことである。学業の余暇を終始一貫、ほとんど行動をともにしながらも、あたしたちは長いあいだ、決してある|則《のり》をこえようとはしなかったのだが、それがとうとう爆発してしまったのは。……  あたしはいまここに、あの|呪《のろ》わしい夜のことを回想してみることにしよう。  だいたい、そのことが起こる少しまえから、つまり、あたしの卒業の日がしだいに迫ってくるにつれて、山内りん子の態度にだんだん変化があらわれはじめていました。  それまではあたしの|奴《ぬ》|僕《ぼく》か|奴《ど》|隷《れい》のように、まめまめしく奉仕することだけで満足していたりん子の態度や言動に、なんとなく強圧的なものが加わってきたのはその時分からのことだった。 「|美《み》|沙《さ》、あなたは学校へ残らなきゃいけないのよ。あなたのようなひとが世間へ出ていっても、決して幸福になれないのよ」  りん子はそのことについて、なんどもなんども口が酸っぱくなるほど|掻《か》きくどくのでした。 「あら、どうして? お姉さま、美沙はどうして幸福になれないの?」  あたしが広い世界へ出ていって、いろんなひとと知りあうということを、このひとは|嫉《しっ》|妬《と》しているのだと知っていて、あたしはわざとそらとぼけるのでした。 「どうしてって、あたしはっきりとはいえないわ。でも、そんな予感がするのよ」 「いやあよ、お姉さま。予感だなんて、そんなあやふやなことでものをおっしゃっちゃあ。……美沙にとっては|生涯《しょうがい》のだいじを、そんな|曖《あい》|昧《まい》な言葉で片づけられちゃ美沙は不服よ」 「ごめんなさい、美沙。それじゃもう少しはっきりいいますけれど、美沙はあんまり美しすぎるの。あんまり|気《け》|高《だか》すぎるのよ。それに神経のきめが細かすぎるの。あなたのようにきめの細かいひとは世間へ出ても、|肌《はだ》ざわりが合わないのよ。世間の肌というものは、もっとザラついてるもんですから。……」 「お姉さま」  と、あたしはわざと甘ったれるように、 「お姉さまのおっしゃること、美沙にはよくわからないのだけど、世間の肌ざわりって男のひとのこと……?」  りん子はちょっとまごついたのち、 「ええ、そう」  と、みじかい、ぶっきら棒な返事をした。  あたしたちはそれまでに、ついぞ男性について意見をたたかわせたことはなかった。あたしはここで、この醜い山内りん子が、男というものについてどういう考えをいだいているのか知りたくなった。 「それじゃ、お姉さまは男のひとがあたしを不幸にするというの?」  山内りん子はだまって答えなかった。あたしはそれを肯定とみて、 「そういうお姉さまは男のひとをよくご存じ?」  あたしはべつにりん子を|嘲弄《ちょうろう》するつもりではなかったが、そのとたん、彼女の体がギクッと|痙《けい》|攣《れん》したのを、いまでもはっきりおぼえている。あたしはわざとそれを無視して、 「男のひとってそんなに悪者ばかりかしら。うちのパパも男よ。お姉さまのお父さまだって男でしょ」  あたしはあくまで無邪気にいったのだけれど、そのとたん、りん子の顔面から血の気がひいていくのがはっきりわかった。  山内りん子は捨て子なのである。だから、彼女は自分の父が、どういう人間なのか知っていないのだ。  しばらく気まずい沈黙があったのち、りん子は度の強い眼鏡ごしに、出目金のような眼できっとあたしを見すえながら、キッパリとおさえつけるような口調でいった。 「美沙、あなたはやっぱり学校へ残らなければいけません。あなたのようにきれいで……そして、あなたのように……」  と、彼女はそこでちょっと口ごもったのち、 「そんなに無邪気なひとは、世間へ出てはいけないのです。世間の男のひとがみんな悪者というわけではありません。しかし、美沙のようにきれいで、そして、……そして、あの……無邪気なひとにかかると、みんな悪者になりかねないのです。美沙、後生だから学校へ残って。そして……そして、あたしと生涯仲よく暮らしていきましょう」  りん子の切実な願いにもかかわらず、あたしは冷たくいいはなった。 「お姉さま、そんなわけにはいかないかもしれないわ」 「どうして……?」 「だって、パパにはパパの考えがあるでしょう。学校を出たらお嫁にいけというかもしれないわ」  りん子の顔が突然恐怖にひきゆがんだのが、あたしにはとても印象的だった。 「美沙!」  と、りん子は男のような|咽喉仏《のどぼとけ》をぐりぐりさせながら、両手でひしとあたしの手をにぎりしめた。 「もうそんな話が出ているの?」  あたしはしずかにその手をはらいのけると、 「さあ、どうだか。だけど、どっちにしてもお姉さまとこうしてお話ができるのも、もうしばらくのあいだね」  あとから思えば、当時のあたしの言動は、いちいちりん子の|邪《よこしま》な恋情を絶望的に刺激したのにちがいない。  おそらく彼女は考えたでしょう。パパというものが存在するかぎり、あたしを自由にすることはできないと。……おそらく彼女は無意識のうちに、パパの存在を|呪《のろ》うていたにちがいない。……  と、こういったからって、山内りん子が手をくだして、パパを殺したというのではない。だいいちパパは腸チフスで、隔離された病室で最期の|呼《い》|吸《き》をひきとったのだから。しかし、あたしにはなぜかりん子の|執念《しゅうねん》が、パパを腸チフスにかからせ、そして、あの世とやらに送りこんだとしか思えない。  それはあたしの学校の、最後の年の秋でした。長い|霖《りん》|雨《う》ののちに台風がきて、横浜いったいに出水をみたことがありました。パパはある用件からその出水のなかを、数時間にわたって歩きまわらねばならぬ破目になりました。それがもとで発熱したのを、父もあたしも単なる|風《か》|邪《ぜ》だと思いこんで、買い薬かなんかですましていたのが手抜かりだった。  あまりしつこい熱と|憔悴《しょうすい》のはげしさに、やっと医師の来診を仰いだときには、腸チフスももう手おくれの状態にまですすんでいたのです。パパは強制的に病院の隔離室へ収容され、そこでまえにもいったとおり、最期の呼吸をひきとったのです。  このことがあたしにとって、いかに大きなショックだったか、いまさらここにくだくだしく述べるまでもあるまい。あたしにはこれという頼りになる|親《しん》|戚《せき》はひとりもなかった。|牧《ぼく》|夫《ふ》がふたりと女中がひとりいたけれど、病院のあと始末からお弔い一式、万事一手にひきうけてやってくれたのは山内りん子だった。しぜんあたしは山内りん子を……りん子ひとりを頼りにせずにはいられないような立場におかれました。彼女の下心は百も承知、二百も|合《が》|点《てん》でいながらも。……  そして、とうとう、あの忌まわしい夜がやってきたのです。  それは父の初七日の夜でした。  まえにもいったとおり、親戚とてはひとりもないあたしのうちで、初七日の法要といってもごく簡単なものでした。りん子とあたしとふたりの牧夫とひとりの女中で、お坊さんにきてもらってお経をあげると、もうそれでおしまいでした。  ところが、その夕方からまたものすごい台風がおそってきたのです。父のチフスの原因が台風にあったことを思うと、その当時、あたしは|嵐《あらし》というものに、一種異様な恐怖心をいだいていました。 「お姉さま、泊まってって。美沙ひとりじゃ怖い。……」  牧夫たちは台風にそなえて、牧舎の警戒をしなければならない。それにかれらの寝るところは|母《おも》|屋《や》の外にあるのです。父が生きているあいだは、それほどとも思わなかったのが、父に死なれてみると、女中とふたりきりの住居がいやにだだっぴろく思われて、|隙《すき》|間《ま》|風《かぜ》がいちめんに吹きこんでくるようなわびしい感じです。ましてやこの大嵐の一夜を、あたしはだれかにすがりついていずにはいられない思いだったのだ。 「ほんとうにお嬢さん、泊まっていってあげてください。これじゃうちのお嬢さまが、心細くお思いになるのもむりはございませんわ」  突然父を失った若いあたしをいとおしむのあまり、年老いた女中は|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|々《たん》と機会をねらっている、山内りん子の|邪《よこしま》な恋にも気がつかなかったのです。  女中の頼みはりん子にとって渡りに舟だった。 「いいわ。泊まってってあげるわ。|婆《ばあ》やさん、|蝋《ろう》|燭《そく》の用意をしといてくださいな。これじゃきっと停電になるわ」  りん子の予言したとおり、八時半にはとうとう電気が消えてしまった。あたしたちは客間に蝋燭をともして話していたが、ふきこんでくる隙間風に、なんどとなく蝋燭の|灯《ひ》を吹き消された。  いい忘れたがあたしのうちは父の設計で、万事洋風のバンガロー式にできているのだが、その夜の嵐はドアも窓も吹きちぎってしまいそうなほど猛烈なものだった。 「お嬢さまがた。もうおやすみになりましては。……これでは今夜じゅう、電気のつきっこありませんわ」 「そうねえ」  と、りん子はわざと気がなさそうに、 「それじゃ、パパさんの寝室でも拝借しようかしら」 「いやよ、いやよ、お姉さまの意地悪! それじゃ美沙をひとりぽっちで寝かせる気……? 美沙、怖くて、怖くて、泣いてしまうわ」 「お嬢さん、恐れいりますがうちのお嬢さまといっしょに寝てあげてくださいません? これじゃ、あたしのような年寄りでも、なんだか心細くて……」 「そうねえ。美沙ちゃん、どうする?」 「お姉さま、いっしょに来てえ」  あたしはもう風にゆれる蝋燭の炎を片手でかばいながら立ちあがっていた。  あたしの寝室は二階になっていたけれど、ちょうど風下にあたっているので、階下の客間ほど風当たりは強くなかった。 「美沙の寝室ははじめてだけど、なかなかしゃれてるのねえ」  度の強い眼鏡の奥から、食いいるように部屋のなかを見まわすりん子の眼は、今夜の嵐のようにはげしくたぎりたって、男のように太い声が|咽《の》|喉《ど》にひっかかってしゃがれていた。 「そうかしら。あらあら、コケシがみんな倒れてしまって……」  大きな三面鏡のまえに蝋燭を立て、床にころがったコケシ人形をひろおうとしたときである。突然、一種異様な物音とともに、稲妻のような光が窓の|隙《すき》から部屋のなかをさしつらぬいた。 「あれ、怖い!」  あたしは思わずりん子の体にしがみついた。りん子ははずみをくらって、ベッドのはしに腰を落とした。一種異様な音響は、それから二度三度ひきつづいて起こり、そのたびに|剃《かみ》|刀《そり》の刃のように鋭い光が、窓の隙から|斬《き》りこんでくる。 「お姉さま、あれ、なに? 雷なの……?」  あたしはむちゃくちゃにりん子の胸に顔をこすりつけながら、あえぐように尋ねた。 「雷じゃなさそうだわね。これだけの嵐だから、空気の摩擦でああいう現象が起こるんじゃない?」  りん子の声はひどくうわずってふるえていた。  不思議な音響はそれきりやんでしまったが、あたしはまだりん子の胸からはなれようとしなかった。こうして体と体をくっつけていると、りん子の心臓が早鐘をうつようにゆれているのがはっきりわかる。りん子もあたしも粘っこく汗にぬれていた。  あたしはふと、|昆虫《こんちゅう》の触角のようにあたしの全身をなでまわしていたりん子の指が、ふるえながら背中のホックを外しにかかったのに気がつくと、いきなり彼女をつきのけて、ベッドのそばに立ちあがった。 「美沙!」  りん子は絶望したように、悲痛な、そしてまた訴えるような金切り声をあげた。 「いいのよ、いいのよ、お姉さま、お姉さまのほしいものは、美沙にはちゃんとわかっているの。お姉さまは美沙の体を見たいのでしょう。いいわ。見せてあげるわ。美沙はとってもきれいな体してるのよ。美沙は毎朝裸になって、その三面鏡に自分の体をうつしてみるの。さあ、お姉さま、思うぞんぶん見てえ。そして、お姉さまの好きなようにしていいのよ」  あたしは肌につけているものを、ことごとくそこにかなぐりすてて、生まれたときのままの姿でりん子のまえに立ちはだかった。 「おお、美沙! おお、美沙!」  風にゆらめく|蝋《ろう》|燭《そく》の灯が、あたしの|裸形《らぎょう》をいっそう神秘的なものにうきたたせたにちがいない。りん子は|床《ゆか》にひれふすと、気が狂ったようにあたしの|爪《つま》|先《さき》に|接《せっ》|吻《ぷん》した。 「お姉さま、立って、立って……そして、あたしを抱いてベッドへつれてって……」  言下にりん子は立ちあがると、男のようにたくましい腕であたしを抱いて、ベッドの上に寝かしつけた。  ふと見るとりん子の眼鏡はどこかへとんで見えなくなっていた。りん子は眼鏡を失うと、盲目も同様なのだ。しかし、そのときのりん子には、もう視覚の必要はなかったのだ。触覚だけが十分彼女の官能を満足させるのだ。 「お姉さまも……お姉さまも……」  あたしはのしかかってくるりん子の体から、ピリピリとスーツを引き裂いていった。  外にはもの狂おしい|嵐《あらし》が吹きつのって、蝋燭の灯もいつか風に吹き消されていた。……      二  思わずもあたしはりん子のことに、あまり長く紙数をさきすぎてしまったようだ。  これからまだまだ、書くことのあるあたしは、できるだけその後の経過を簡単に、述べなければならなくなったようです。  あの嵐の一夜を境にして、あたしは山内りん子と|邪《よこしま》な関係を結んでしまいましたが、それでも学校ではあいかわらず、聖女、あるいは聖処女で通っていたのだから、思えば|滑《こっ》|稽《けい》な話です。なるほど、あたしは処女だったかもしれない。男の|肌《はだ》はまだ知らなかったのだから。  あたしたちはたいそう上手に|逢《あい》|曳《び》きしていたし、ふたりともぜったいに秘密を守るという約束だったので、学校ではだれもふたりが、ある一線を踏みこえたと知るものはなかったのです。  こうして半年あまり、りん子とあたしの忌まわしい関係がつづけられたが、そのうちにあたしはしだいにりん子がうるさくなってきた。  りん子はたしかに強烈な快楽をあたえてくれる。それは身も心もしびれるような快楽で、あたしはしばしばりん子の腕のなかで失神することさえあった。  しかし、あたしははじめから知っていたのだ。これがほんものでないということを。女の特権としてうける快楽は、もっとほかのものでなければならぬということを。そして女のりん子でさえが、これだけの快楽をあたえうるのだから、たくましい男の腕に抱かれたら、どのようになるのだろうと、あたしはひそかに夢想するようになったのです。  りん子はしかし、あたしの心にやどるふたごころなど気がつくべきはずがない。それにもかかわらず、あたしが彼女をうるさく思いはじめたのは、りん子の干渉がだんだんはげしく、強圧的になってきたからである。彼女は当然、あたしも学校へ残るものとして、学校当局へ交渉したり、それ相当の準備をすすめていましたが、あんな陰気な学校へ残るなんて、おかあしくってというあたしの|肚《はら》には、全然気がつかなかったのです。  あたしはとうとうりん子を裏切りました。それも彼女の思いもよらぬ方法で。……  賛美歌とともに卒業証書を|頂戴《ちょうだい》した翌晩、あたしはもう銀座の高級喫茶ベラミのウエートレスとして、客にお|愛《あい》|想《そ》をふりまいていました。  あたしはたいそううまくやったのです。半年のあいだにあたしは|牧場《ぼくじょう》の管理人を見つけました。そして、牧場の経営は自由にやらせる代わりに、そこからあがる利潤の何パーセントかを、あたしによこすという契約でした。その契約はいまもって厳重に守られているので、あたしはこのような卑しい|稼業《かぎょう》にまで身を落とさずとも、十分生活していける身分なのです。  それにもかかわらず|餓《が》|狼《ろう》のような男に、惜しげもなく肉をくれてやっているのは……? たぶんこれがあたしの趣味なのでしょう。  それはさておき、あたしがさよならともいわずに、横浜から姿を消したとき、りん子がいかに驚き、あわて、|嫉《しっ》|妬《と》にもの狂おしくなったかは、いまさらここに書きたてるまでもありますまい。  りん子はすぐにベラミをかぎつけてやってきました。彼女のつもりではあたしを説きふせ、横浜へ……そして、あの退屈きわまりない学校へつれもどすつもりだったのでしょうが、ベラミのような場所にとって、自分がいかに|不《ふ》|釣《つ》り|合《あ》いな存在かと気がつくと、ろくに口もきけないのでした。  銀座でも一流中の一流といわれる高級喫茶ベラミは、客種もよく、それだけにそこに働く女たちも厳選の上にも厳選を重ねてありました。みんな洗練された淑女(?)たちなのです。 「美沙ちゃん、いつも大きな|洋《こう》|傘《もり》を後生大事にかかえてくるひと、いったい美沙ちゃんとどういう関係なの」  さすがに洗練された淑女たちは、ちぢれっ毛のことや近眼のことにはふれず、りん子の大きな洋傘を話題にしました。りん子の洋傘ときたら、握りに太い|黒《こく》|檀《たん》がついていて、まるで護身用の|棍《こん》|棒《ぼう》みたいでした。 「あのひと、降っても照ってもあの洋傘をもっているわね。よっぽど用心ぶかいのね」  それにたいしてあたしは昔、うちがりっぱにやっていたとき、家政婦に雇ってあった女だとごま化しておきましたが、だれもそれを疑うものはなかったのです。りん子はあたしと三つしかちがわないのだが、どう見たって三十より下には見えないので、おあつらえむきの家政婦に見られたのでしょう。  それはさておき、りん子がこの喫茶店にとって不釣り合いであると同じ程度に、あたしほどベラミにとって釣り合った存在はなかったようです。それが証拠にあたしはたちまち、ベラミのクイーンとまつりあげられ、多くの賛美者たちに取りまかれるようになったのです。  それはちょうど学校にいるときと同じようでしたが、それでいて根本的に大きくちがっているのは、賛美者たちが同性でなく異性であること、したがって、だれもかれもある慾望をもっていることです。  あたしはそれでも、それらの誘惑からたいへんうまく逃げてきました。いいえ、意識して逃げたというよりも、りん子がいつも指摘していた持ちまえの無邪気さが、われしらず巧妙に立ちまわらせたらしいのだ。  とにかく、あたしはそうして、りん子の|執《しつ》|拗《よう》な説得をもはねのけ、ベラミに半年ほどつとめていた。いいえ、じっさいはもう少し長くつとめていたのだけれど、ちょうど半年めにあのひとにめぐりあったのだ。  そのひとというのは、|江《え》|口《ぐち》|万《まん》|蔵《ぞう》といって、世間でも有名な彫刻家の先生だった。年は五十いくつでしたが、はじめてこのひとに会ったとき、あたしが一種の|戦《せん》|慄《りつ》を禁じえなかったのは、後日このひとを刺し殺すべき運命のまえぶれだったろうなどと、予言者めいたことをあたしはいわない。  万蔵は|傴僂病《くるびょう》ではなかった。しかし、そうかと見られてもしかたがないほどのひどい|猫《ねこ》|背《ぜ》だった。それがあたしを一瞬戦慄させたのだ。  しかし、うちとけてみるとこのひとは、やさしい、気さくな|小《お》|父《じ》さんのようにうけとれた。ずうっと|先《せん》に奥さんがなくなって、子供もなかったとかで、|婆《ばあ》やとふたりで|淋《さび》しいやもめ暮らしをしているとかいう話だった。そのせいか、よくベラミへやってきては、何時間も粘って女の子たちをよくわらわせた。チップのくれっぷりも悪くなかった。  あたしのことを聖女みたいだといいだしたのは、この万蔵だった。たしか、万蔵がそのことをいいだしたとき、お店の|隅《すみ》には山内りん子が、例の洋傘をひかえて座っていたので、あたしはくすぐったさをおさえきれなかったが、しかし、まんざら悪い気持ちではなかったのだ。 「ねえ、美沙君、ぼくは君をモデルにして、聖女の首をつくりたいんだよ。なあに、モデルったって裸にするんじゃない。きみみたいな|潔《きよ》らかなひとを裸にするなんてバチが当たる。胸から上の胸像というやつ。……とにかくきみは、なんともいえぬ潔らげな顔をしている。まったく聖女だ。ぼくはそれをモデルにして制作しておきたいんだよ」  裸にならなくてもいいというのが、ちょっとあたしには物足りなかったが、むろんそんな顔色はけぶりも見せなかった。 「よろしゅうざいますわ。先生の芸術のためならば……」  あたしはもったいぶった切り口上で答えたが、心のなかでは舌を出してわらっていた。  あたしには万蔵の下心がとっくの昔にわかっていたのだ。万蔵は女学校時代のあたしのことをどこからか聞いてきて、それによってあたしの歓心を買い、自分のアトリエへひきよせて、いったいなにを求めようというのか。……あたしにははじめからちゃんとわかっていたのです。  あたしはひと月あまり万蔵のアトリエへ、毎日のように通ったが、万蔵が、|地《じ》|金《がね》をあらわしたのは、一週間もたたぬうちだった。  モデル台に座っているあたしの顔を見ながら万蔵は、もったいらしく粘土をこねていたが、突然、妙なことをいいだした。 「美沙君、こんなことをいうときみは誤解をするかもしれない。しかし、わたしがこんなことをいうのは決して|助《すけ》|平《べい》根性からじゃないのだ。つまり、その、なんなんだな」  と、万蔵はもったいらしく|空《から》|咳《ぜき》をして、 「人間の顔というものは、体のほかの部分から遊離して存在するものではない。それは体の他の部分と、密接な関連をもつものなんだから、そのひとの顔のほんとうの美しさを理解するためには、どうしても体の他の部分、すなわち全身の曲線を見せてもらわねばならない。美沙君、これは芸術家の良心から、きみにお願いするのだが、どうだろうねえ。一度きみのヌードを見せてもらえないかな」  あたしは|肚《はら》のなかでクスンとわらった。  しかし、表面はあくまで聖女の尊厳をたもちながら、しずかに一枚一枚身につけたものを|剥《は》ぎとっていった。  そして、最後の一枚を床にかなぐりすてたとき、そこにどのようなことが起こったか、いまさらここに述べるまでもあるまい。  万事ことが終わったのち、万蔵の口からたれた|涎《よだれ》が、粘っこくあたしの乳房をぬらしていたことだけを、不思議にはっきりおぼえている。      三  これをお読みになるひとが、去年の秋の展覧会のことをおぼえていれば、きっと『聖女の首』のこともおぼえているでしょう。むろん、それは小品ですから、場内を圧するというわけにはいかなかったけれど、とにかく相当の評判でした。  ところが、そうなると妙なもので、モデルになったこのあたしまでが、世間の注目をひきはじめた。それまでだって、ベラミへ来る客の大半は、あたしがお目当てだったのだが、その胸像が評判になると、いっそうそれがハッキリしてきました。  それにしても芸術とは、なんという妙なものだろう。万蔵は毎日毎日、あたしの裸身を抱いてのたうちまわり、けだもののような|咆《ほう》|哮《こう》をあげ、涎をたらたらたらしながら、あたしから『聖女の首』を抽出したのです。  あたしはあたしで、亀の甲のような万蔵の|異形《いぎょう》をもてあそび、すでに老齢期へ入っている男の体から、快楽の最後のしぼりかすまでむさぼりくらうと、さて、そのあとで疲れはてた万蔵を鼓舞し、激励し、すましかえってモデル台に立っていたのだ。  あたしが聖女だって? うっふ! チャンチャラおかしくって……という顔色は、しかしあたしはけぶりにも見せなかった。また、万蔵ともかたく申し合わせて、ふたりの関係はぜったいに漏らさないことにきめてあった。万蔵は展覧会ののちも、よくベラミへやってきたが、その態度はあくまでも、気さくで、気前のいい小父さんだった。あたしはときどきこの男が、素っ裸のあたしをまがった背中の上にのっけて、アトリエの床を四つん|這《ば》いになり、|涎《よだれ》をたらたら流しながら這いまわる姿を思いうかべて、いまにも吹きだしそうになることがあった。  しかし、あたしは吹き出さなかった。あたしはあくまで聖女でいたかったのだ。学生時代から賛美者の群れにとりまかれることに慣れてきたあたしは、いつもひとから騒がれていなければ|淋《さび》しいのだ。それには聖女らしい仮面をつけているにかぎる。……  ただ、そういうあたしにとって、心配のたねだったのは、三日にあげずやってきて、無言のまま茶をのんでいく山内りん子の存在でした。彼女はもうあたしに口をきこうともしなかったし、また、あたしに眼もくれなかった。  しかし、いつも黒っぽい服を着て、いかつい体をブースの一|画《かく》に鎮座させている彼女のちぢれっ毛と、度の強い眼鏡を見ると、あたしは強い|威《い》|嚇《かく》を感じずにはいられなかった。  彼女だけが知っているのだ。あたしと万蔵のあのただれた関係を。……あたしはいつも万蔵とあくどい遊戯にふけっているとき、焼けつくようなりん子の視線を感じるのでした。それはあたしの良心が感ずる眼とばかりはいえなかったようだ。  あたしはしばしば万蔵のアトリエの付近で、護身用の|洋《こう》|傘《もり》をわしづかみにした、野暮な彼女の姿を|瞥《べっ》|見《けん》することすらあったのだ。……  だが、それではあたしは万蔵との関係に満足していたのだろうか。いえ、いえ、かつてりん子とはじめて忌まわしい関係におちいったとき、これがほんものでないと感じたと同様に、あたしはいつも万蔵と悪ふざけにふけっているとき、これがほんとうの男の力でないことを知っていたのだ。  あたしはそれをベラミへ群がりよってくる、若い男の群れからもとめようとしていたのだが、その選に当たったのが、|中林良吉《なかばやしりょうきち》と|伊《い》|東《とう》|慎《しん》|策《さく》というふたりの男だった。  中林良吉というのは色の浅黒い、がっちりとした体格の、いつも身だしなみのよい男だが、この男があたしの心をとらえたのは、その体格にも似合わず、ひどく|初《う》|心《ぶ》なところだった。  中林という男は、ひとと話をするとき、相手の顔をまともに見ることができないのです。かれはいつも右手にシャープ・ペンシルをもっていて、ありあう紙にとりとめもなく、妙な図型をかきつらねる。それはいくつもいくつも三角形を積み重ねたもので、いつかそこに|鱗形《うろこがた》の模様ができあがる。 「まあ、中林さんには妙なくせがあるのねえ。それなんのまじないなの。まさか、あたしを|蛇《へび》のように冷たい女だなんて、|諷《ふう》|刺《し》していらっしゃるんじゃないでしょうねえ」  あたしがからかうと中林良吉は、はじめて気がついたように、あわてて鱗形の模様をもみくちゃにすると、 「と、とんでもない、美沙ちゃんは口が悪いんだなあ」  と、|頬《ほお》をあからめながら|濡《ぬ》れたような眼で、意味ありげにじっとあたしを見つめるのがいじらしかった。そんなとき、あたしは良吉の呼吸がはずんでいるのを知っていて思わずほてってくる顔を伏せる。あたしは長い|睫《まつげ》に自信があり、ふっさりと眼を伏せたところが、この上もなく|潔《きよ》らかに見えるらしいことを、経験からして知っていたのだ。  もうひとりの伊東慎策というのは、中林良吉にくらべると|柄《がら》もずっと小さく、女のように|華《きゃ》|奢《しゃ》な体をしていたが、あたしはなによりもこの男の|美《び》|貌《ぼう》に強く心をひかれていた。それに、華奢といっても伊東の体は、繊弱とか、|脆弱《ぜいじゃく》とかいう感じではない。小作りでほっそりとはしているけれど、|撓《しな》うような|強靭《きょうじん》さが、弾力にとんだバネを思わせる。  伊東慎策は中林良吉とちがって、|初《う》|心《ぶ》らしく見られるのをきらって、つとめて悪党がって見せたりする。しかし、自分自身仮面をかぶっているあたしは、どんな人間でも仮面をとおして、すぐと本心を見抜いてしまう。  うっふっふ、悪党がりのお坊ちゃん、たんと悪党ぶっていらっしゃい。あんたが悪党がれば悪党がるほど、初心な|生《き》|地《じ》がさらけ出されるのがわからないの。  とにかく、中林と伊東のふたりをあやつっていたあの期間が、いまから思えばあたしにとって、もっとも幸福な時代だったといえましょう。ふたりはかわるがわる、あたしを映画につれだしたり、郊外散歩にひっぱりだしたりしました。  中林は両親もあり、兄妹もおおぜいあるとかで、したがって家庭へ招かれたことはなかったが、伊東慎策のほうはアパートのひとり暮らしなので、ちょくちょくその部屋を訪問したこともあります。  しかし、ふたりともいかにも良家の子弟らしく、どんな|際《きわ》どい場面にたちいたっても、あたしが期待しているような行動に出ようとはしないのです。悪党がりの伊東のごときは、ベッドの見える寝室のドアが開いていたりすると、あわててそれを閉めるくらいでした。  あたしはかれらのそういう慎み深い態度にたいして、一方では深い失望を味わいながら、しかし、一方ではそれゆえにこそ、より大きな期待に胸をふくらませ、よりいっそう聖女らしく、あくまでも慎み深くふるまっていました。どちらがさきにあたしの手に落ちてくるかと、舌なめずりをするような思いを、胸の底ひそかにたたみこんでおいたまま。  あの秋の展覧会がすんでから、こういう状態が|三《み》|月《つき》あまりもつづいたでしょうか。中林も伊東もいまいったような状態から、一歩も前進しなかったのですが、しかし、あたしは知っていたのです。|熟柿《じゅくし》はいままさに枝をはなれようとしているのです。あたしはただ手をうけて待っていればよい。……  あたしのこの期待と自信が強過ぎただけに、それが裏切られたとわかったときのあたしの失望と|昏《こん》|迷《めい》と怒りは大きかった。  年が改まってから中林も伊東も、二、三度やってきたきり、バッタリ姿を見せなくなりました。そんなことはいままでになかったことです。ふたりとも、三日もあたしの顔を見ないと、いても立ってもいたたまれない思いがすると、あの初心な中林でさえが、あたしに打ち明けたことがあるくらいだもの。  一週間とたち、十日と過ぎ、二週間たってもふたりが、申し合わせたように姿を見せぬにいたっては、もうただごととは思えなくなりました。あたしの胸は怪しくふるえ、いいようのない不安が重っくるしく|肚《はら》の底をしこらせました。だれかがあたしのことを中傷したのではないか。……  だれかとはだれ……? あたしの脳裏にすぐうかびあがったのは、あの黒いかげろうのような山内りん子の不吉な姿です。  りん子がなにか画策しているのではないか。ときどきベラミへやってきては、だまりこくって|隅《すみ》のほうで茶をのんでいく彼女が、ふたりにたいするあたしの気持ちを知らぬはずがない。りん子がなにか告げぐちをしたのではないか。そういえばこのところしばらくりん子も姿を見せない。……  思いまどい、乱れ狂うあたしの疑惑が決定的となったのは、それからまもなくのことでした。ある晩、かつて中林といっしょに来たことがある客がやってきたので、それとなく中林の消息を尋ねてみると、相手はびっくりしたように眼を見張って、 「おや、美沙ちゃんは知らなかったのかい。中林は結婚したよ。目下新婚旅行中さ。なんでもあいつ、好きな女があったそうで、最近までがんばりとおしていたんだが、急に心が変わって親のえらんだ女と結婚したんだ。結局あいつも平凡な男だったよ」  あたしの耳にはその男の声が、どこか遠くのほうから聞こえてくるような気持ちでした。一瞬、あたしは胸のなかにポカンと大きな穴があいたような空虚さを感じました。だが、そのつぎの瞬間、むらむらと肚の底からこみあげてきたのは、なんとも名状することのできぬどす黒い怒りの思いでした。 「おや、美沙ちゃん、きみ、どこへ行くんだ」  客のよびかける声も、あたしの耳を素通りしてしまいました。あたしはふらふらと立ちあがると、そのまま控え室へ帰り、オーバーをひっかけるとベラミの裏口から外へとびだしてしまいました。  自分の思いあがりが強過ぎただけ、胸をかむ屈辱の思いは強く、屈辱の思いが強ければ強いだけ、こみあげてくる怒りのかたまりを、おさえることができなかった。  この怒りをあたしはどこへぶっつけようとするのだろうか。……  あたしは夢中で通りかかった自動車を呼びとめました。そして、気がついたときには伊東慎策の住むアパートの横に立っていました。伊東のアパートは近ごろ出来の|安《やす》|普《ぶ》|請《しん》とはちがって、がっちりとした鉄筋コンクリートの五階建てで、伊東はその最上階の五階のフラットに住んでいるのです。  あたしはアパートのまえでちょっと|躊躇《ちゅうちょ》しました。伊東に会ってみていったいどうしようというのか。伊東と中林とはかくべつ知り合いというのではない。  中林の心が急に変わって結婚したとしても、伊東がその理由を知るはずがない。  しかし、ふたりの足が遠のいたのが、ほとんど同時だというところに、なにか共通の理由がありはしないか。あたしはそれをたしかめずにはいられない。  玄関からなかへ入っていくと、管理人が受付から顔を出してにっこりお辞儀をした。まえに二、三度、伊東といっしょに来たことがあるので、管理人も顔をおぼえていたのだ。 「あの……伊東さん、いらっしゃるかしら?」 「さあ、お電話かけてみましょうか」 「いいわ。あたし行ってみますから」  五階にある伊東のフラットのまえに立ってドアをノックすると、 「だれ……?」  と、慎策の声が聞こえた。なんだか酔っ払っているような調子である。 「あたし……美沙よ」 「おお!」  と、かすかな驚きの声が聞こえて、なかからドアを開いてくれた慎策の眼は、血の筋が網のように走って、ギラギラと怪しい光にもえている。慎策はすばやく廊下のあとさきを見まわすと、 「美沙、……おまえ、ひとりかい」  と、言葉つきなどもいままでと全然ちがっている。慎策は悪党がりだったけれど、あたしにたいしては、いつもていねいな言葉をつかっていたのだ。  これも酒のためだろうか。 「ええ、ちょっとそこまで来たものだから。しばらくお顔が見えないから、ご病気でもしてらっしゃるのじゃないかと思って……」 「まあ、こっちへ入れよ」  慎策はもう一度廊下のあとさきを見まわすと、うしろ手にドアを閉め、カチリと|鍵《かぎ》をまわす音が聞こえた。  ああ、この男の心はまだあたしからはなれていない。……  だが、それにしても|舐《な》めまわすようにあたしを見る、あのいやらしい眼つきや、ふてくされたようにねじれた|唇《くちびる》はどういうのだろう。 「すみません。もうおやすみになるところだったんですのね」  パジャマの上にガウンをひっかけた慎策から、あたしがまぶしそうに眼をそらすと、慎策の唇がまたにやりとねじれた。 「あたし、もう失礼します。あなたがお元気でいらっしゃることがわかればいいのです」 「美沙、もういいかげんにしろよ」 「え?」 「おまえのことはもうなにもかもわかってるんだ。おまえが聖女か。うっふっふ、ずいぶんうまくだまされたもんだよ、おれも中林も」 「なんのことをおっしゃるんですか」 「美沙、もういいかげんに仮面をぬげよ。おまえは今夜、中林が急に結婚したというので、不安になっておれの様子をさぐりにきたんだろ。それでも中林はしあわせさ。わりに簡単におまえのことをあきらめることができたんだからな。だが、このおれはどうしてくれるんだ。おまえを純潔な処女だと信じて|惚《ほ》れきってたこのおれをどうしてくれるんだ」 「だれかがあたしのことを中傷したんですのね」 「中傷? うっふっふ、美沙、おまえはまだシラを切ってとおす気か」 「失礼ですが、伊東さん、そこをどいてくださいませんか。あたしもう帰らしていただきます」 「この野郎!」  突然、伊東があたしの手をとってひきよせた。それがあまり突然だったので、よろめく拍子にあたしはいつか慎策の腕のなかに抱きすくめられていた。 「はなして、……はなして……はなさないと声を立てますよ!」 「声を立てるなら立ててみろ。てめえは男にこうされるのが好きなんだろう。断わっとくがこんなにしたからって、おれはおまえに惚れてなんかいないよ。|復讐《ふくしゅう》してやるんだ。おまえの体をおもちゃにして復讐してやるんだ。さあ、おれといっしょに来い!」  ああ、慎策の指摘したとおりだった。あたしの心は怒りにたけりくるっていながらも、あたしの体はもう慎策のすることに、抵抗できなくなっていたのだ。  あたしはそのまま寝室へひっぱりこまれると、ものに狂ったような慎策の手で、身につけているすべての      四  この物語が突然血みどろの様相をおびてきたのは、それから間もなくのことでした。  慎策の寝室で憎悪と歓喜の一時間をすごしたのち、あたしがくたくたに疲れた体に|鞭《むち》うって、管理人の部屋のまえまでさしかかったときでした。どこかでどさりと大きな音がしたかと思うと、管理人がなにか叫びながら、部屋のなかからとびだしてきた。 「あっ、たいへんだ!」  と、管理人はあたしの顔を見ると眼をうわずらせて、 「だれか上から落ちてきた!」 「えっ?」  立ちすくむあたしをあとに残して、管理人はあたふたと行きかけたが、自分でも不安だったのか、 「すみませんが、お嬢さん、あなたもいっしょに来てくださいませんか」 「だって……」  あたしがためらいのふうを見せると、 「後生ですからいっしょに来てください。あいにく家内がいないものですから」  あたしも仕方なく管理人のあとにつづいて、玄関から外へとびだしたが、そこへ門を入って妙な男がやってきた。 「ああ、|宮《みや》|崎《ざき》さん、どうしたんです。いやにあわててるじゃありませんか」 「あっ、|金《きん》|田《だ》|一《いち》先生、よいところへ……だれか上から落ちてきたんです。わたしといっしょに来てください」 「だれか上から落ちたあ?」  金田一先生と呼ばれたのは、いまどきめずらしい羽織|袴《はかま》はまだしもとして、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭の小男だった。  その男はちらとあたしのほうへひとなつっこい微笑をくれると、管理人のあとにつづいてあたふたと建物の角をまがった。あたしもひきずられるように、そのあとからついていったが、角から数メートルの露地の奥に、なにやら白いものがたたきつけたようにころがっている。  管理人はそばへよって、その白いものをのぞきこんでいたが、 「あっ、五階の伊東さんだ!」  その声を聞いた|刹《せつ》|那《な》、あたしは全身から血が吹きだすような恐怖をおぼえた。 「五階……?」  一同は反射的に五階の窓をふりあおいだが、その刹那、そこからのぞいていた影が、つと奥へひっこむと、まもなく電気のスイッチをひねったとみえ、窓はまっくらになってしまった。 「お嬢さん、お嬢さん、あなたいままであの部屋にいらしたんじゃないんですか」  管理人に尋ねられて、 「はあ、あの、一時間ほど……?」 「あの部屋に伊東さんとあなたのほかに、だれかいたんですか」 「いいえ、あたしが出てくるときにはだれもいませんでした。伊東さんだけ……」  あたしは少しむこうにころがっている伊東慎策の体に眼をやった。慎策はあたしが別れたときのままの姿で、白いパジャマがぐっしょりと、赤黒い|汚《し》|点《み》に染まっている。あたしはまた、全身から血の吹きだすような|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいて走るのをおぼえた。 「宮崎さん」  金田一先生と呼ばれたもじゃもじゃ頭の男はきびしい声で、 「いま五階の窓からひっこんだ人物……男でしたか、女でしたか」 「さあ、わたしにはなんとも……ほんのとっさの出来事でしたから。……」 「お嬢さん、あなたは……?」 「あたしもなんとも……」 「それにしても妙ですね。このひとがあの部屋から落ちたのなら、同じ部屋にいる人物が、なんとか声を立てそうなものだが……」  金田一という男は、袴の|裾《すそ》に血がつかぬように、気をつけながら露地にしゃがむと、パジャマ姿の慎策の体を調べていたが、 「宮崎さん、とにかく警察へご報告なさるんですね。それからついでにお医者さんも……」 「金田一先生、それじゃこのひと殺されたと……?」 「宮崎さん、あなたなにか声を聞きましたか」 「いや、わたしは自分の部屋で帳簿をくっていたんです。するとだしぬけにドサリと大きな物音がしたので、あの窓からのぞいてみると、この|死《し》|骸《がい》が……いや、死骸とはまだ気がつかなかったが、……だれかが倒れているようなので、あわてて部屋をとびだしたところで、このお嬢さんにぱったり出会ったんです」 「それじゃ、叫び声は聞かなかったんですね」 「はあ」 「自分でとびおりたとしても、ひとに突き落とされたとしても、その瞬間、人間というものは声を立てるものでしょう。それに頭部の傷口に|腑《ふ》におちぬところがあります。とにかく大急ぎで警察へ電話をかけてください」 「それじゃ、殺されてから突き落とされたと……?」 「いや、それはもっと詳しく調べなければ……ときにお嬢さんあなた、このひとのお友達ですか」 「はあ」 「さっきまでこのひとといっしょにいらしたんですね」 「はあ」 「それじゃ、恐れいりますが、わたしといっしょにもう一度、あの部屋へおもどりになってくださいませんか。どうせ警察のご連中がやってくれば、なにかと参考に聞かれるでしょうから」 「はあ」  あたしはちょっとためらったが、もうそのころには窓という窓がひらいてこちらをのぞいていたし、それに露地にもいっぱいのひとだかりだった。あたしはあまりじろじろひとに見られるのを好まなかったので、 「承知しました」  と、軽く頭をさげた。  金田一先生と呼ばれる男といっしょに五階へあがってくると伊東慎策の部屋のまえに、五、六人ひとが群がっている。 「ああ、ちょっとお尋ねいたしますが、たったいまだれかこの部屋からとびだしたものがあるのにお気づきじゃございませんか」 「はあ、そうおっしゃればついいましがた、だれかここからあわただしくとびだしていったようですが、足音を聞いただけで、つい姿は……」  隣室の住人らしいのが答えた。ほかのご連中もみんなやっぱり同じことらしく、だれもこの部屋からとびだしていったものの姿を見たものはなかったようだ。金田一という男は|把《とっ》|手《て》に指紋を残さぬように、また把手の指紋を消さぬように用心深くドアをひらいて、あたしをなかへみちびきいれると、電気をつけて、 「お嬢さん、あなたがさっきここを出ていったときと、なにか様子のちがっているようなことは……」  あたしは身をすくめたまま、急いで部屋のなかを見まわした。このフラットは玄関をのぞいてふた部屋にわかれており、居間の奥に寝室がある。 「さっきはあの窓がしまっていました。それから……」  と、いいかけて、あたしは突然大きく眼を見張った。|床《ゆか》の上に黒い短い|黒《こく》|檀《たん》の棒のようなものがころがっている。 「さっきはあのようなものはなかったようですけれど……」  金田一という男は、袴の裾をつまんで床の上にしゃがみこむと、黒檀の棒をのぞきこんでいたが、 「ああ、こいつでぶんなぐったのかな。血と、髪の毛がこびりついている。それにしてもこれはなんだろう」  と、もう一度のぞきなおして、 「これはなにかの|柄《え》ですな。|洋《こう》|傘《もり》の柄かもしれない」  あたしはさっきから、大声あげて叫びたいのをがまんしていたのだ。  五階の窓からのぞいていた人物を、あたしは男だか女だかわからなかったといったけれど、ほんとをいうとあたしは知っていたのだ。あたしははっきりと、ひとなみはずれたちぢれっ毛の輪郭を見てとったのでした。      五  可哀そうな山内りん子よ。  彼女はそれから二日目のお昼過ぎ、横浜のアパートの一室で、服毒自殺をとげているのが発見されたのでした。  しかも、管理人とふたりでそれを発見したのは、かくいうあたしだったのです。警察ではまだあの黒檀が、りん子の|洋《こう》|傘《もり》の|柄《え》とは気づかなかったらしいのだが、あたしは不安をおぼえて、そのことについて、りん子と話しあうために、横浜まで出向いていったのです。  あたしの顔を見ると管理人のおばさんが、 「ああ、お嬢さん、ちょうどよいところでした。山内さんの様子が少しおかしいんですの」  眼をとがらせてとびつくような調子です。 「お姉さまの様子がおかしいって?」 「はあ、あの朝の早い山内さんが、きょうはいまもってお眼覚めになりませんの。さっきからなんども起こしにいったんですけれど……とにかくいっしょに来てください」  山内りん子の部屋はこのアパートのいちばん奥にある、日当たりの悪い部屋でした。ドアのまえに立って名前を呼んだが返事はなく、こころみに把手に手をかけてみましたが、むろんなかから|鍵《かぎ》がかかっているらしく、ドアはびくともしないのです。あたしはふとドアの上についている換気窓に眼をつけました。 「おばさん、なにか台はない? あたしそこからのぞいてみるわ」  すぐおばさんが台をもってきてくれたので、あたしはその上にあがって、なかをのぞいてみました。どの窓もぴったり閉まっており、電気も消えているので、部屋のなかは薄暗くてよくわかりませんでしたが、それでもベッドの上にりん子が寝ている様子です。 「お姉さま、お姉さま」  ふたこと三こと声をかけているうちに、あたしの声はうわずってきた。 「おばさん、なんだか変よ。お姉さま、身動きもしないで寝てるわ。どうかしたんじゃないかしら」 「お嬢さん、それじゃドアをこじあけてでも、入ったほうがよろしいでしょうか」 「そうしてみたら……? あたしなんだか心配になってきたわ」  おばさんはすぐ大工を呼んできました。その大工の手によって、ドアをこじあけ電気をつけると、一同は思わず|呼《い》|吸《き》をのみました。  ベッドの上に寝ているりん子の顔色の悪さから、あたしたちはすぐただごとでないことを知ったのです。りん子のベッドの|枕《まくら》もとの小卓の上には、|上《うわ》|皿《ざら》|天《てん》|秤《びん》と粉末の睡眠剤の入った瓶がおいてあります。そして、そのそばにドアの鍵がならんでいました。  りん子は睡眠剤をのむときには、いつも自分で粉末の分量をはかって服用するのです。ベッドの下には一枚の薬包紙がちっていました。 「ああ、山内さん!」  と、おばさんが泣き声をあげて、ベッドのそばへかけよろうとしたとき、大工がその手をとってひきもどしました。 「おかみさん、さわっちゃいけない。こういうときには警察のご連中にまかせておくもんだよ」  大工はおばさんとあたしを部屋の外へ押し出すようにしましたが、もう一度ふりかえったあたしの眼に、度の強いりん子の眼鏡の玉がこわれたまま、粗末な鏡台のまえにおいてあるのがうつりました。  ああ、可哀そうなりん子!  部屋の外へ出てきたとき、あたしの眼から急に涙があふれてきたのでした。  あたしがあの|大《だい》それたことをやってのけたのは、その晩のことでした。  あたしにはまだよくわからなかったのです。あたしのことを中林良吉や伊東慎策に告げぐちしたのは、いったいだれだったのか。それはりん子だったのだろうか。それとも、ひょっとすると、あの江口万蔵だったのではあるまいか。  それをハッキリたしかめるまでは、あたしは不安で、いても立ってもいられぬ気持ちでした。そこで、その夜あたしは万蔵のアトリエを訪ねていったのですが、あいにく万蔵は留守だった。婆やさんの姿も見えないようでした。それでいて、アトリエの電気はついているし、ドアに鍵もかかっていなかったので、あたしはかまわずなかへ入っていきました。  そして、ぼんやりデスクのまえの回転|椅《い》|子《す》に腰をおろし、意味なく机の上のものをいじっていましたが、突然、頭のてっぺんから、熱い|鉄《てつ》|串《ぐし》でもぶちこまれたような大きな驚きにうたれたのです。  デスクの上にひろげてある大きな吸取紙の隅のほうに青鉛筆で、三角形がいくつもいくつも積み重ねてかいてあり、|鱗形《うろこがた》の模様がくっきりとうきあがっているではないか。ああ、それこそは中林良吉が、ひとと対話するときの、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》をまぎらせるくせなのだ。  それでは中林良吉は、このアトリエへ訪ねてきたのか!  あたしは|肚《はら》の底からドスぐろい|憤《ふん》|怒《ぬ》が、|烏《い》|賊《か》のすみのようにこみあげてくるのを、おさえることができなかった。  と、そのとき、あたしの眼にうつったのは、むこうの台の上にのっかっている、 『聖女の首』  いい忘れたが、その胸像にはかなりの希望者もあったのだが、万蔵はどうしてもそれを手ばなさないで、展覧会がすむと自分のアトリエへひきとったのだ。  だから、それがそこにあるのに不思議はないが、その胸像を中心に、左右に三つずつ台がならんでおり、その台の上にやはり胸像らしいものがあるのだが、その六つの像に黒い布がかぶせてあるのが、なんとなく意味ありげでした。  あたしは吸いよせられるように、それらの胸像のそばにより、ひとつひとつ布をめくってみましたが、ああ、そのときのあたしの驚き! それは全部あたしの胸像でした。そして、その像のひとつひとつに、名札みたいなものがついていました。それを読んでいくと、 『|接《せっ》|吻《ぷん》する聖女』『抱擁する聖女』『法悦する聖女』『|悪《わる》|企《だく》みする聖女』『血ぬられた聖女』  あたしはきゃっと叫びました。いいえ、叫んだかどうかわからない。きっと声は出なかったでしょう。  ああ、そこにある七つの仮面は、みんなあたしの顔にはちがいないが、中央にある聖女の首をのぞいては、なんといういやらしさ、浅ましさ!  わかった、わかった!  江口万蔵はあたしとのあくどい遊戯のあいだにも、あたしの表情を観察することを忘れなかったのだ。そして、それを粘土の上にうつしておいて、あたしの恋人たちに見せつけたのだ。これが聖女美沙の正体であると。……  あたしの全身は怒りと屈辱にもえあがりました。これほどひどい不信行為があるだろうか。また、これほど残酷な裏切り行為をだれが予期しよう。  そのとき、アトリエのドアの外から、ひょろひょろと酒に酔ったような足音が聞こえてきました。あたしは思わずそこにあったパレット・ナイフをにぎりしめ、いきなり酔っ払いの万蔵の胸につき立てたのでした。      六  あたしはとうとう|娼婦《しょうふ》に落ちてしまいました。  裁判の結果、あたしの罪は思いのほか軽かったのです。弁護士はこういうふうにあたしを弁護してくれました。  江口万蔵はあたしに|邪《よこしま》な恋をいだき、あたしを他の男に渡したくなかったので、ああいう忌まわしい胸像をつくって、あたしの恋人たちに見せ、それによって、あたしから恋人たちを遠ざけようとしたのであろうと。……  そして、そのことは証人として呼びだされた、中林良吉の証言によっても裏書きされたのでした。こうして万蔵の|奸《かん》|計《けい》が|暴《ばく》|露《ろ》したところから、あたしは情状|酌量《しゃくりょう》ということになり、執行猶予を申し渡されたのでした。  こうしてあたしは案外みじかい期間、幽閉の身となっていただけで、まもなくこの|娑《しゃ》|婆《ば》へ出てきたのです。しかし、いかにあたしに正当な理由があるとはいえ、ひとひとり|殺《あや》めた女をまともに相手にしてくれるような男は、もうひとりもこの世にいなかったのです。  しかも、山内りん子や江口万蔵、さては伊東慎策らによって、懇切ていねいに手ほどきされた性の遊戯の記憶は、あたしの肉体に消しがたい|烙《らく》|印《いん》となってきざみこまれていました。  あたしは男から男へとあさり歩いた結果、やがてはひと晩といえども、男の肌のあたたかみを味わわずには寝られぬ女となってしまい、あげくの果てにはいつか娼婦の群れに落ちてしまいました。  そして、あまりの|乱《らん》|淫《いん》荒淫のため、さすがのあたしも、いまではすっかり疲れはててしまいました。疲れて、疲れて、もう生きているのさえものういほどに、あたしはこの世に|倦《う》み疲れてしまったのです。  それにしても、あたしがなぜこのような浅ましい手記を書きつづる気になったのか。……それはこうです。  昨夜のこと、客を送りだしたあとへ、妙な男が訪ねてきました。それはあたしの体を買いにきたのではなく、ある重大な話があるとやらで、名前を聞くと金田一|耕《こう》|助《すけ》。  あたしは金田一というその名前を、すっかり忘れていたのですが、粗末な応接室で会ってみて、はじめてはっと思い出しました。伊東慎策が殺された夜、あのアパートで出会ったもじゃもじゃ頭の奇妙な小男。…… 「やあ、どうも、いつぞやは……」と、金田一耕助はぴょこりと頭をさげると、にこにこと人なつっこい微笑をうかべます。 「はあ、あたしになにかご用でしょうか」  と、これが近ごろのくせとなった警戒的な|眼《まな》|差《ざ》しで、あたしはこの奇妙な小男を見つめました。 「いえね、ある問題について、ちょっと美沙ちゃんと意見をたたかわしてみようと思いましてね」 「ある問題とおっしゃいますと……?」 「山内りん子さんの服毒一件ですがね」  と、金田一耕助はにこにこ笑った。  伊東慎策の事件ならばともかく、山内りん子の一件とは、思いもよらぬことだったので、あたしはギョッと眼をすぼめた。 「お姉さま……いえ、あの、山内りん子さんのあの事件に、なにか不審な点でも……」 「ええ。そうなんですよ。それだからこそ、今夜こうしてあなたと意見をたたかわせにやってきたんです」 「どういう点が……?」 「いや、これはぼくが申し上げるまでもなく、あなたのほうがよくご存じですが、山内りん子さんはひどい近眼でしたね。眼鏡がないと盲目も同然のひとでした。ところが、りん子さんの死体が発見されたとき、眼鏡はこわれて、鏡台の上においてありました。りん子さんはそれだのにどうしてああも正確に、睡眠剤を|天《てん》|秤《びん》で計量できたのでしょう。ご存じかどうか。あの薬は量が過ぎると|嘔《おう》|吐《と》するようになっているんです。少なすぎてはもちろん死ねなかったでしょうしね」 「お言葉の意味がよくわかりませんが……」  と、あたしはつとめて冷たい声でいった。 「お姉さま……いえ、りん子さんは薬を計量したのち、眼鏡をこわしたのでは……?」 「そして、そのこわれた眼鏡をわざわざ鏡台のそばへもっていったというのですか。盲目のように手さぐりで。……しかも、ベッドのすぐ|枕下《まくらもと》にはおあつらえむきの小卓があるというのに……?」  あたしはちょっと|下唇《したくちびる》をかみしめた。 「それでは、あなたのお考えでは……?」 「そうです、そうです。ぼくにはそれがちょっと……じゃない、たいへんおかしいと思われるんです。そこでぼくは考えたんですが、りん子さんが服毒したとき、あの部屋にはもうひとり、ほかにだれかがいたんじゃないか。そして、そのひとがりん子さんにあの薬をすすめたのじゃないか。……」 「でも、あの部屋には鍵がかかっていました。しかも、その鍵はりん子さんの枕下のデスクの上においてあったんですのよ」  いってしまってから、あたしはしまったと心の中で|臍《ほぞ》をかむ思いだった。金田一耕助はその言葉を待っていたらしく、にやりと|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》むようにわらったのである。 「いえね、美沙ちゃん、ところが鍵というやつは、|奸《かん》|智《ち》にたけた人物にかかると、どうにでもうまく処理できるものなんですよ。たとえばこの事件の場合ですがね。あの鍵のおいてあった小卓の、ちょうど鍵の輪のあたる部分に、ピンでさしたような跡が残っているんですよ。そこで、こういうことが考えられる。犯人は|紐《ひも》のさきに結びつけたピンをその小卓に突っ立てておく。そして、その紐を換気窓から廊下の外へたらしておくんです。さて、万事ことが終わると、犯人は外からドアに鍵をかけ、その鍵の輪にさっきいった紐をとおす。そして、その紐づたいに首尾よく鍵が小卓の上までたどりついたところで、強く紐をひっぱれば、小卓からピンが抜けて換気窓ごしに犯人の手もとにかえってくる。……いや、これはね、外国の|探《たん》|偵《てい》小説にしばしばあつかわれる密室の殺人の、いちばん初歩のトリックで、ひょっとするとこの事件の犯人も、そういう探偵小説を読んでいたのかもしれませんね」  あたしの胸は怒りにふるえたが、やっとそれをおさえると、できるだけ冷たく聞きかえした。 「それではあなたは、りん子さんは殺された、だれかに毒を盛られた……と、おっしゃるんですか」 「ええ、そう」 「それにしてはりん子さんの死に顔は、いかにも安らかで、幸福そうでしたわ」  金田一耕助がまたにやりとわらったので、しまった! と、あたしは下唇をかみしめた。 「それはそうでしょう、美沙ちゃん、お姉さまは熱愛するひと、すなわち、同性の愛人といっしょに天国へ行くんだとばかり信じこんでいたんでしょうからね。つまり、腹黒い同性の愛人が、こういうふうに持ちかけたんですね。お姉さま、あたしはもう生きてはいられない。あたしは死んでしまいます。でも、ひとりで死ぬのはいや! お姉さまもいっしょに死んで。……ところでお姉さまなるりん子さんは、同性の愛人の生きていられない事情というのをよく知っていた。だから、だまされるとはつゆ知らず……しかも、おそらく服毒まえに、ふたりは大いに最後の歓をつくしたことでしょうからねえ」 「そして、その同性の愛人の生きていられない事情というのは……?」 「その前々夜、伊東慎策なる人物を殺害していることです。なるほど、慎策なる人物が窓から投げ落とされたとき、あなたはすでにアパートの一階に達していた。しかし、殺害者すなわち、被害者を突き落とした人物であると考えるのは、場合によってはいささか早計のきらいなきにしもあらずです。ことにこんどの場合のごとく、山内りん子さんのような愛人のためならば、いかなる犠牲をもいとわぬという狂信的人物が存在するとすればですね。りん子さんはあなたをかばうために、あなたが地階へ達したころを見計らって、死体を五階の窓から突き落とした。ところが、そのあとでもう一度、五階の部屋へひきかえしたあなたは、そこにりん子さんの|洋《こう》|傘《もり》の|柄《え》を発見し、自分をかばってくれたのがりん子さんであることを知った。たいていの人間ならば、りん子さんのこの犠牲的行為にたいして、大いに感謝すべきところ、あなたは逆に、それをもって、りん子さんを生かしておけぬと考えたんだ。怖いひとだね。きみは……恐ろしい女だよ、きみは……」  ああ、もうこれ以上、なにをつけくわえる必要があるだろうか。あたしは昨夜、金田一耕助が立ち去ってから、この手記を書きつづけている。書いては休み、休んでは書き、まる一昼夜というものを、あたしはこの手記に没頭してきた。  それにしても、江口万蔵という男は、なんとよくあたしの性格を|把《は》|握《あく》していたことだろう。アトリエで万蔵を刺し殺したとき、あたしは何気なくそこにある鏡のなかをのぞいたのだが、そこにうつっている顔は、万蔵のつくった、 『血ぬられた聖女』の顔とそっくりでした。おそらく、山内りん子の殺害を計画しているときのあたしの顔は、 『悪企みする聖女』と、そっくりだっただろう。あたしはいままでわざと七つ目の胸像の題を書かずにおいたが、それは、 『|縊《くび》れたる聖女』と、いうのでした。  いま、あたしの頭上には、わなになった一本の綱がぶらさがっています。あしたの朝になったら、ひとはあたしがその七つ目の仮面と、そっくりそのままの顔をして、この部屋の天井からぶらさがっているのを発見することでしょう。    |猫館《ねこやかた》     ドクトル・ハマコ  |猫館《ねこやかた》……と、付近でそう呼ばれているその古館は、|上《うえ》|野《の》の高台の北のはずれにあたっており、|日《にっ》|暮《ぽ》|里《り》の駅のすぐ目と鼻のあいだにあった。  それでいてその古館のある付近は、都会のあわただしい|喧《けん》|噪《そう》から完全に隔離されていて、妙にひっそり閑とした一|画《かく》になっている。ひとつにはその付近に寺院が多く、ひろい墓地などが|空《くう》|々《くう》|漠《ばく》|々《ばく》たる面積をしめているせいだろう。  ことに猫館のあるその付近いったいは、上野の台地が南から北へむかって急激に落ちこんでいるちょうど傾斜地の途中にあたっており、南に高い|崖《がけ》を背負うているせいか、土地がじめついた感じの上に、都会の中心地としてはめずらしく大樹が多く、それがこの付近いったいの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をいっそう|陰《いん》|湿《しつ》なものにしている。  ちょうど|樫《かし》だの|椎《しい》だの|常磐《と き わ》|木《ぎ》がいっせいに古い葉をほうり落として、あざやかな色の新芽を、枝々の|尖《せん》|端《たん》にパッとふきだし終わったころの午後のことだった。  ことしは梅雨の入りがはやかった。五月の中旬ころからカラッとした天候にめぐまれることが少なかった。各地に集中豪雨の被害の報があいついだが、六月に入るといっそうじめついた天気がつづいて、その日——六月五日の午後も雨こそ降っていなかったが、雲が低く垂れこめて、いまにもパラパラ落ちてきそうな空模様だった。  猫館とよばれるその古館のまえに立ったとき、|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》が重っくるしく、鉛でものまされたような気持ちに誘われたのも、ひとつにはそういう|暗《あん》|澹《たん》たる天気のせいもあったかもしれない。その古館の背後には赤茶けた粘土層を露出した高い崖が、屋根よりはるかに高くそびえていた。えぐりとり、|削《そ》ぎ落としたようなその崖が、このあいだの集中豪雨にも被害をまぬがれたのは、崖の上にそびえている|欅《けやき》の大木のせいだろう。  その欅の木の太い根が網の目のように粘土層の|地《じ》|肌《はだ》から露出しているが、それがこの崖の崩壊を防いでいるのであろう。そのかわり崖からせり出したその大木が、からかさのように枝をひろげて、古館の上に青黒い葉をしげらせているので、それがいっそうこの建物のたたずまいを陰気な感じのものにしているようだ。  |尾《お》|長《なが》|鳥《どり》が十数羽、古館の周囲の|繁《しげ》みに群れていた。  この鳥はこういう陰湿な天候を好み、繁みの深いところを、群れをなし、|餌《えさ》をあさって移動していく。羽根の色は美しいが声のよくない鳥である。ギャーギャーと鳴きかわすその声が、猫館とよばれるこの|古《ふる》|朽《く》ちた建物の印象を、いっそう不吉なものにしているのである。  この建物は戦後数年まで写真館だったそうである。  そういえば屋根が高く二階屋かと見える部分がアトリエらしい。傾斜のはげしいスレートぶきの屋根には、厚い板ガラスがはめこまれていて、そこが昔のアトリエだったのだろう。  根は|南京蔀《ナンキンじとみ》の|安《やす》|普《ぶ》|請《しん》らしいが、いまではいちめんに厚い|木《き》|蔦《づた》の葉の層におおわれていて、それが一種の|風《ふ》|情《ぜい》となっている。しかし、その反面、ますますこの建物の印象を、陰気でかつ不吉なものにしていることはいなめない。  写真館時代からいろいろといかがわしい|噂《うわさ》があった家だそうだ。  戦争まえエロ写真の撮影に利用されていたことが発覚し、警察の手が入ったこともある家だとか、戦後は戦後で資材不足で写真館の経営難時代、えげつない秘密パーティをやっていた家だとか……。  そういう噂が立つというのもこの古館の建っている場所が場所だからだろう。いかにも秘密ありげな場所に、いかにも秘密ありげな建物が建っているからだ。  日暮里のほうからやってきて、ゴミゴミとした町を抜け、だらだら坂をまがりまがって登ってきた坂の突き当たりにこの古館が建っている。坂の右側には|山《さん》|陽《よう》|寺《じ》という古い寺院の|土《ど》|塀《べい》が長々とつづき、土塀のなかは墓地らしい。雨にすすけた|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》がにょきにょきと土塀の上からのぞいている。左側には|大《おお》|谷《や》|石《いし》の土台の上に土盛りをして、よく手入れのいきとどいた|黄《つ》|楊《げ》の|垣《かき》|根《ね》がつづいている。黄楊の垣根の高さはおとなの|背《せ》|丈《たけ》を越えていて、垣根のなかは幼稚園である。この幼稚園は終戦後できたもので山陽寺が経営している。  山陽寺の土塀と幼稚園の垣根のあいだのだらだら坂はいちおう舗装がいきとどいている。その坂の正面に赤茶けた粘土層を露出した崖が|屏風《びょうぶ》のようにそびえており、その崖に三方から抱かれるような位置に、問題の古館が一軒ポツンと建っているのである。  坂を登りきったところに|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》の門があり、その鉄格子の一部に金属製の板がはめこんである。おそらく昔はその板に写真館の名前が彫りこんであったのだろうが、三年ほどまえからその板には、 [#ここから3字下げ] Dr. Hamako [#ここで字下げ終わり]  と、ただそれだけ。  門柱の上にとりつけた球状の電燈の|笠《かさ》に、紫色のガラスを使ってあるのは、ここの女主人の職業の神秘性を、よりいっそう強調するためなのだろう。  さて六月五日のお昼過ぎ、金田一耕助がちょっと相談に乗ってもらいたいことがあって、警視庁の捜査一課、第五調べ室へ|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部を訪ねていったところ、警部は留守で部下の|遠《えん》|藤《どう》刑事が外から帰ったばかりのところであった。 「ああ、金田一先生、ちょうどよいところへいらした。これからごいっしょしませんか」 「警部さんはお留守なんですか」 「ええ、事件があって出向いているんです」 「事件って殺人事件なんですか」 「ええ、それが奇々怪々なコロシでしてね。きっと金田一先生のお好みにかないますよ。わたしこれからもう一度現場に出向いて行くところなんですが、金田一先生もごいっしょに行きましょうよ。まったく奇々怪々な事件でしてね」  遠藤刑事は金田一耕助の様子を見あげ見おろしながら、しきりに奇々怪々を強調している。  金田一耕助はあいかわらずである。草木染めの無地の|単《ひと》|衣《え》によれよれの|夏袴《なつばかま》、白足袋がすこし泥でよごれている。|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭もいつもと少しも変わらない。  遠藤刑事がここでしきりに奇々怪々と強調しているのは、金田一耕助というこの男、同じ殺人事件でもふつうありきたりの事件では、なかなか|食指《しょくし》を動かさないということを、よく知っているからである。  金田一耕助は眼をショボショボさせながら、 「場所はどこ?」 「日暮里のほうです」 「被害者は?」 「ドクトル・ハマコ」 「ドクトル・ハマコ……? 女のお医者さんが殺されたんですか」 「医者じゃないんです。金田一先生はご存じじゃありませんか。|女占《おんなうらな》い|師《し》なんです」 「女占い師……?」  金田一耕助は思わず眼を見張った。  そういえばどこかでドクトル・ハマコのことを読んだことがある。しかし、占いだの|八《はっ》|卦《け》だのにあんまり興味をもたない金田一耕助は、いま遠藤刑事に名前をきいてもすぐには思い出せなかったのである。 「その女占い師が殺されたんですか」 「そうなんですよ。ゆうべ……それも|奇妙《きみょう》|奇《き》|天《て》|烈《れつ》な状態でね」 「奇妙奇天烈な状態とおっしゃると……?」 「まあいいから行ってみようじゃありませんか。百聞は一見にしかず……現場はまだそのまンまにしてあるはずですよ。さっき死体が発見されたばかりですからね」 「警部さんはそっちへ行っていらっしゃるんですか」 「そうです、そうです。だから金田一先生がいらしてくださると、おやじさん喜びますぜ。なんだかまた|厄《やっ》|介《かい》な事件になりそうなんですがね」  金田一耕助はもじゃもじゃ頭をひっかきまわしながら、テレたような笑いをうかべた。  あいつは自分の弱点をよく知っている。その弱点をたくみに突いてきているのだ……と、知っていながらそれに乗らずにはいられない金田一耕助なのだ。  金田一耕助ははじらいの色をうかべながらオズオズと口を開いた。 「それで、ぼくが行ってもいいんでしょうか」 「いいですとも、大歓迎でさあ。さあ、じゃ、お供しましょう」  こうして六月五日の午後三時ごろ、金田一耕助は遠藤刑事に案内されて、あのまがまがしい古館の鉄格子の門をくぐっていったのである。  ちょうどいまはやんでいたが、けさまで降っていた豪雨の名残りが古館の周囲や背後のあらゆるところに、クッキリとその|痕《こん》|跡《せき》をとどめており、そのなかを右往左往する捜査係官の姿が、いかにも凶事のあった家らしい、ものものしい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をかもし出していた。     押し入れの中  そこはもとこの古館が写真館であった時代には、スタジオだった場所にちがいない。そのスタジオの跡に手を入れて、ドクトル・ハマコの接客室と、接客室とドアひとつでつながる寝室がしつらえてあった。  犯罪の現場は奥のほうにしつらえられた寝室のなかだった。そこには床いちめんにケバのあつい真っ赤な|絨毯《じゅうたん》が敷きつめてあり、部屋のすみにはいかにも女主人のものらしく、華麗なベッドが眼もさめるようなはなばなしい色を見せて、大きく場所を占領している。  ベッドの反対がわの壁にはこの粗末な古館には不似合いな、大きな大理石の暖炉が切ってあり、マントル・ピースの上の壁には、月並みな裸婦の油絵がかかっていた。  被害者——すなわちドクトル・ハマコと名乗る女占い師は、ベッドの上に横たわっていたのではない。真っ赤な絨毯の上に髪振り乱して|仰《あお》|向《む》けに横たわっているのだが、金田一耕助はひとめその死体に眼をやったとき、思わず|眉《まゆ》をつりあげずにはいられなかった。  女はあきらかに絞殺されたのだ。|咽《の》|喉《ど》に残るなよなよしい|紐《ひも》の跡のむごたらしさが、ハッキリそれを示している。しかし、その服装はいったいどうしたというのだろうか。  スカートだけはただしく腰につけていた。薄地だがつやつやとビロードのように|艶《つや》のあるスカートで、|靴《くつ》の|爪《つま》|先《さき》までとどきそうな長さである。フレヤのいっぱいついたスカートなのだ。  だが、上半身はどうしたのであろうか。上半身にはなんにも身につけていないのである。この女は|素《す》|肌《はだ》の上に服を着る習慣があったのであろうか。むっちりとした肉付きのよい胸に、紅玉をちりばめたような双の乳房が、ゆたかな盛りあがりを見せてむっちりと隆起している。  そのゆたかな、盛りあがりといい、そこにちりばめられたふたつの紅玉といい、それがなんとなく妙にものほしそうに見えたというのは、むせっかえるような女の肉体に、圧倒された金田一耕助の|眩《げん》|覚《かく》だったのだろうか。  女の年齢は三十五、六、派手な眼鼻立ちのパッと眼をひくよい器量だったにちがいない。いまはゆがんで紫色に|冒《ぼう》|涜《とく》されているが。……  それにしてもこの女、ベッドの上で絞殺されて、|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の|苦《く》|悶《もん》のうちに|床《ゆか》の上へころがり落ちたものだろうか。いや、それにしてはベッドはきれいに整備されている。その上に体を横たえたような|痕《こん》|跡《せき》は見当たらない。  金田一耕助の眼を奪った異様なものがもうひとつそこにある。いや、このほうがいちはやく、この寝室へ踏みこんだ金田一耕助をとらえたのである。  |猫《ねこ》だ。  一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、六匹……金田一耕助が眼でかぞえてみると、つごう六匹の猫が死体のまわりを黙々として取りまいているのである。  まるくなっているのもあった。ピチャピチャと舌なめずりをしながら顔を洗っているのもあった。うさん臭そうな眼を光らせて、そこにいる係官たちの顔を見ながら、うそうそと死体のまわりを歩いているのもあった。 「猫はもっといたんですよ」  金田一耕助の耳元で等々力警部がささやいた。 「われわれが駆け着けたとき死体のまわりにゃ、猫が十二匹いましたよ」  それから等々力警部がつけ加えた。 「猫館……と、いうんだそうです。この家は……」  それにしてもあれはいったいなんだろう。女のふくよかな胸の上に点々と散っているあの赤黒い|斑《はん》|点《てん》は……? 形から見ると小猫の足跡のように見えるのだが、あの赤い染料はいったいなんだろう。突然金田一耕助は両手を強く握りしめ、大きく呼吸を吸いこんだ。  いまのいままでほかの猫のカモフラージュと、真っ赤な|絨毯《じゅうたん》の保護色に眼をあざむかれて気がつかなかったのだが、女の頭の横たわっている床から半メートルほど離れたところにいる黒猫は、生きているのではなく死んでいるのである。  いや、殺されたのだ。なにか鋭利な刃物でえぐられたらしく、首がほとんど胴からはなれそうになっている。そのむごたらしさ、なよなよしさ! 金田一耕助が思わずこみあげてくる|戦《せん》|慄《りつ》を、おさえることができなかったのもむりはない。  ケバの長い絨毯がそこからあふれ出た血を吸って、まだじっとりと湿り気をおびているようである。そういえばどの猫たちもヒゲが赤く染まっているのは、みんなてんでにおのれの仲間の血を吸ったのであろうか。  金田一耕助はまた新しくこみあげてくる戦慄を、どうにもおさえようがなかった。 「ここへ来る途中の坂の左側に幼稚園があったでしょう」  等々力警部がまた耳元でささやいた。 「はあ……?」  なんのことかと金田一耕助は警部の顔を振り返った。 「あそこの園児たちがこの死体を発見したんですよ」 「園児たちがこの死体を……?」 「そう、猫ですね」 「猫とおっしゃると?」 「ここの猫の一匹がその幼稚園へ遊びに行った。子どものひとりが抱きあげたら、着ているものに血がついた。調べてみると猫の体にいっぱいの血がついている。子どもごころにも不思議に思って、仲間をふたりかたらって、ここへのこのこやって来たらこのていたらくで……ちょうどお昼の休み時間のことだったそうです」  この|凄《せい》|惨《さん》な現場を|頑《がん》|是《ぜ》ない幼稚園の子どもたちが発見したのかと思うと、金田一耕助はまた背筋を走る戦慄をおさえることができなかった。 「この家の家族は……? むこうに男がひとりいたようですが……」 「あれは幼稚園……山陽幼稚園というんですがね、そこの園長さん。……と、同時にすぐまえにある山陽寺の住職ですよ」  なるほど、近ごろはお寺のお坊さんも洋服を着るものなのだと、金田一耕助はほほえんだ。 「と、同時にこの家の|大《おお》|家《や》さんでもあるんだそうです」 「ああ、そう、ここは借家なんですか」 「はあ、戦後手に入れたんだそうですが、なにせこういう建物ですからね、ふつうの人間にゃむかない。ドクトル・ハマコ女史のような人物以外にゃね」 「ところでさっきの質問に答えてください。この家の家族は……?」 「そうそう、|婆《ばあ》やがひとりと、内弟子がひとり、まだ若い女だそうですがね。それとドクトル・ハマコの三人住まいだったそうです」 「それで婆やと内弟子は……?」 「それがふたりとも姿が見えないんだそうです。少なくとも子どもの報告で|松《まつ》|崎《ざき》|喜《き》|美《み》|子《こ》さんが駆け着けたときにゃね」 「その松崎喜美子さんというのは?」 「なに、山陽幼稚園の保母ですよ。なかなかきれいなひとです」  等々力警部はよけいなことをいってから、自分のいったことばの無意味さに気がついたのか、くすぐったそうに苦笑した。 「それにしても婆やと内弟子がふたりともいないというのはおかしいじゃありませんか」 「いや、婆やはときどき|下《した》|谷《や》の|姪《めい》のところへ泊まりに行くことがあったそうです。これは住職にして園長なる|糟《かす》|谷《や》|天《てん》|民《みん》氏の話なんですがね」 「しかし、内弟子は……」 「内弟子は|佐《さ》|藤《とう》|阿《あ》|津《つ》|子《こ》というんだそうですが、これもゆうべドクトル・ハマコにどっかへ追っ払われたんじゃないかと、糟谷天民氏は苦笑しているんですがね」 「どこかへ追っ払われたとは……?」 「なにせこの若さとこの器量、それにこの体ですからね、男が|放《ほ》っときゃしないだろうと糟谷天民氏はいってるんだが……」  等々力警部は死体の上半身へ眼を走らせたがすぐ思い出したように、 「おお、そうそう、金田一先生、ここにちょっとおもしろいものがあるんですよ」  等々力警部がポケットから取り出したのは、ハトロン紙の封筒である。封筒は警視庁のものなのだが、そのなかから警部が取り出したのは燃え残りの一枚の写真である。 「こ、これ、ど、どうしたんですか」  金田一耕助は驚きの眼を見張って、思わず呼吸をはずませた。 「いや、さっきその暖炉のなかから発見したものなんですがね。被害者が殺害されるまえに焼きすてようとしたものか、それとも犯行のあとで犯人がやったことなのか、かんじんの顔の部分が焼けてしまって、だれだか全然わからなくなってしまっているんだが……」  それはハガキ大の写真だったらしいのだが、なるほど顔の部分は焼けくずれてしまっている。焼け残った部分も|茶褐色《ちゃかっしょく》に変色していて、その一部分はいまにもてのひらのなかで|片《へん》|々《ぺん》と、くずれ落ちそうになっているのだが、それでもなおかつそこに写し出された写真がどういうものであるかは想像された。  それは女の裸体写真である。  ベッドの上かソファがバックか、一糸まとわぬ女が仰向けに寝ているところを、真上から撮影したものらしい。幸か不幸か、いま金田一耕助の手にある写真では、下腹部のあたりまで茶褐色に焼けこげているのでもうひとつ鮮明さを欠いているのだが、もとはそこに|恥《ち》|部《ぶ》までハッキリ写し出されていたのではあるまいか。  この写真だけでは|被《ひ》|写《しゃ》|体《たい》の女の正確な年齢はわからない。しかし、ひろげた|股《また》の肉のゆたかさからみてもまだ若い女にちがいない。  金田一耕助は反射的に床にいるドクトル・ハマコの死体に眼をやった。  この写真のぬしはそこに殺されている被害者自身なのだろうか……。  金田一耕助が思わず|呼《い》|吸《き》をのんだとき、あわただしい足音とともに、 「あっ、け、警部さん、主任さん」  この寝室へとびこんできた若い刑事の顔色ったらなかった。 「ど、どうしたんだい、|浜《はま》|中《なか》君。な、なにかまた見つかったのかい?」  ここの所轄警察の捜査主任、|日《ひ》|比《び》|野《の》警部補も相手につりこまれたのか、思わず|吃《ども》り気味になっていた。 「こっちへ来てください。ちょ、ちょっと見てもらいたいものがあるんです」  日比野警部補は等々力警部と金田一耕助に眼くばせしたのち、急いで浜中刑事のあとについて出ていった。  一分ののち金田一耕助が見たものは、奥の三畳の押し入れのなかの、薄いせんべい|蒲《ぶ》|団《とん》のあいだに突っ込まれていた老婆の死体である。老婆も絞め殺されたものらしく、細い首になまなましい|紐《ひも》の跡が食いこんでいる。 「|辻《つじ》|本《もと》|咲《さき》|子《こ》!」  あえぐような声に金田一耕助がふりかえってみると、山陽寺の住職にして山陽幼稚園の園長糟谷天民氏の眼がいまにもとび出しそうであった。  こうしてこの|猫館《ねこやかた》における二重殺人事件の恐怖にみちた幕が切って落とされたのであった。     悪党写真師 「いやあ、わたしもじつはあんまりあの女のことをよく知らないんですよ」  糟谷天民氏もさすがにきょうの蒸し暑さに、上着こそぬいでいたが、ワイシャツの|襟《えり》にネクタイはきちょうめんに結んでいた。ただしワイシャツもネクタイもよれよれで、お世辞にも身だしなみのよい人物とはいいかねた。  ことにガニ|股《また》のズボンの|膝《ひざ》が大きくたるんでいるところをみても、あんまり|風《ふう》|采《さい》を気にしない人物であることを物語っているようだ。ワイシャツの襟が太い|猪《い》|首《くび》に食いいりそうで、見ていても気の毒である。  年齢は五十五、六だろう。 「あれは一昨年の春のことだったよ。新聞の貸家広告を見てあの女……ドクトル・ハマコという女がやって来たんですよ。なにせ、ほら、場所が場所、この建物が建物だけに、ふつうの人間にゃ住めんうちじゃ。まあ、ああいう変わりダネでないとな」 「それで、ただそれだけのことで、身元もよく調査もしないでこの家を貸したというんですか」  |斬《き》り込んだのはこの事件の捜査主任、|谷《や》|中《なか》署の日比野警部補である。疑惑にみちた語気が鋭かった。 「いや、それというのが|敷《しき》|金《きん》もちゃんともらったし、前家賃も受け取った。それに身元引受人もよかったもんじゃからな」 「身元引受人……? どういう人物ですか、それ……?」 「|佐《さ》|伯《えき》|幸《こう》|造《ぞう》さん、ほら、去年の暮れにのうなった……」 「佐伯幸造氏といやあ、あの保守党の|領袖《りょうしゅう》の……?」  等々力警部ははっと金田一耕助と顔を見合わせた。 「それ、ほんとうですか」 「|嘘《うそ》だと思うんなら、ほら、これをごらん」  糟谷天民氏がそばにひかえた|鞄《かばん》から取り出したのは、大きな茶褐色の封筒である。そのなかから抜き出した|賃《ちん》|貸《たい》|契《けい》|約《やく》|書《しょ》に眼を走らせて、金田一耕助と等々力警部、日比野警部補の三人は思わず顔を見合わせた。  そこには佐伯幸造の名が達筆でしたためてあり、住所も|捺《なつ》|印《いん》もかたどおりである。 「浜中君」  と、日比野警部補はかたわらの若い刑事をふりかえって、 「この住所、佐伯氏の住所にちがいないかたしかめてくれたまえ。佐伯氏が|逝《せい》|去《きょ》されたのは?」 「あれはたしか去年の十二月のことじゃったよ」 「よし、それじゃ去年の電話帳にゃまだ佐伯氏の名がのってるだろう。しかし、糟谷さん」  日比野警部補は鋭く相手を見て、 「この署名、佐伯氏のものにちがいないという確信を、あなたは持っていられたんでしょうな」 「そりゃわたしもたしかめましたよ。なにせ、相手があのとおりの大物じゃからな。かえって油断がならぬと思ったんです」 「会ったんですか。佐伯氏に?」 「会いましたよ。議会へ訪ねていったら快く会ってくれたんです」 「どういう関係なんですか。佐伯氏と|賀《か》|川《がわ》|波《は》|満《ま》|子《こ》とは?」  契約書にある署名によるとドクトル・ハマコの本名は賀川波満子というらしい。 「信者だといってましたよ。まあ、ひとつよろしく頼む……と、ただそれだけ。なにせ忙しいひとだから面会時間三分間、じゃが、それでいいじゃありませんか。この署名があのひとのもんにちがいないことはたしかめたんじゃから」 「なにか、こう、肉体的な関係でもあったようでも……?」  日比野警部補の好奇心がいやしいほうへ傾くのもむりはない。去年死亡した佐伯幸造は七十をはるかに越えていた。しかし、むこうに死体となって横たわっているドクトル・ハマコのあの豊麗な肉付きを思えば、日比野警部補たらずとも、|臆《おく》|測《そく》をたくましゅうしたくなるのもむりはないであろう。 「そりゃどうですかな。本人はただ信者だといってましたがね。ああいう大物にかぎって案外子どもだましのまじないやなんかにひっかかるとこがあるんじゃありませんか」 「佐伯氏がこの家へ来たようなことは?」 「さあね。わたしゃ家を貸してるだけでべつに見張りをしてるわけじゃありませんからね。だけどああいう大物がやってくりゃ、なんとなくわかるもんじゃありませんか。まあ、来たことはないようですな」 「糟谷さんは……」  と、きびしい眼をして口をはさんだのは等々力警部である。 「佐伯氏が亡くなられてからこの契約書を書きかえようとは思いませんでしたか」 「そりゃその時分話も出ました。こちらから持ち出したんです。だけど、賀川さんのほうからもう少し、もう少しでのばされて、とうとうここまできたんですな。家賃のほうもとどこおりなく、キチンキチンと払ってくれますし、それにべつにいかがわしい風評も聞きませんし……あの営業、警察のほうでも正式に認めていたんでしょう」  こう突っ込まれると所轄警察の一員として、日比野警部補も一言もなかった。 「ときに、糟谷さん」  と、そばからボソリと口をはさんだのは金田一耕助だ。 「この商売、|流《は》|行《や》ってたようですか。すぐそばに住んでらっしゃるんだし、|大《おお》|家《や》と|店《たな》|子《こ》の関係とあらば、それくらいのことわかるはずだと思うんですが……」  糟谷天民氏はしばらく無言でいたのちに、 「率直にいってたいして流行っていたとは思えませんね。この家へ来る客といえばどうせ中小企業……と、いうよりは|小商《こあきな》いに手づまりになった商店のおやじだとか、下町のおかみさんだとか、ま、そういったふうな手合いが多かったようですね。しかし……」  と、金田一耕助がなにかいおうとするのをおさえつけるようにして、 「ちょくちょくどこかへ出かけていたようですからね。出先によいおとくいを持ってるんじゃないかとね。なにせああいう政界の大物を身元引受人に立ててくるくらいの女ですからな、だけど、そういうことは弟子の佐藤阿津子が帰ってくればわかるんじゃないですか」 「ときに男関係は……? あなたさっきなにか意味ありげなことをおっしゃってたが……」 「いや、あっはっはっ!」  と、糟谷天民氏はぶの厚い|掌《てのひら》でつるりと|頬《ほお》をなであげると、 「さっきは、まあ、ああいったまでのことでな。あの器量で、あの若さじゃからな。正直いってわしらじゃかてちょっと食指を動かしたことがあるて」 「あなたが……?」 「さよう。まあ一種の好奇心からじゃがな。しかし、|態《てい》よく|撥《は》ねつけられたのですぐあきらめてしもうた。うしろにどういう|凄《すご》いのがついてるかもしれんと思うと薄気味悪くもあったんじゃな。それにうちの|婆《ばあ》さんの監視も厳重なもんじゃからな」 「あなたのほかにどういう男が……?」 「そうじゃな。外では知らんがこの近所では裏の先生なんかがちょくちょくと、この家へ出入りをしてたようじゃよ。もっともどの程度の交際だったのか、そこまではわしも知らんがな」 「裏の先生というと……?」 「ほら、この裏の|崖《がけ》の上に赤い屋根の家が見えてますじゃろ。あれ、アトリエというのかよ。上条さん……|上条恒樹《かみじょうつねき》さんというエカキさんじゃそうなが、そのひとがちょくちょくとな。崖の上から|岨《そば》|路《みち》みたいなのがついておりまして、その岨路づたいにちょくちょくと……しかし、さっきもいったとおり、どの程度の交際かわしゃ知らんでな」  つまらないことをいったとばかり、糟谷天民氏はいささか後悔ぎみの顔色だった。 「ところでこの家はずうっと昔からあなたの家でしたか」  この質問は金田一耕助から出されたものである。金田一耕助もこの質問のなかにあのような重大な意味が秘められていようとは、そのとき夢にも気付かなかった。  糟谷天民氏はこの質問に驚いたように、日比野警部補のほうを振り返ると、 「日比野さん、あんたこの家のことをご存じないかな」 「いいや、べつに……、なにかこの家に……?」 「そういえばあんたはまだ若いな。そうそうお宅に|一柳《ひとやなぎ》という|古狸《ふるだぬき》の刑事がいるはずじゃが」 「一柳君ならまだいますよ。もっとも近ごろはすっかり年をとってとかく病気でひきこもりがちですがね。しかし、一柳君がなにかこの家について……?」 「じゃ、帰ったらとっくりとこの家のことを聞くんですよ。もとこの家を持ってたのは|古《ふる》|谷《や》|磯《いそ》|吉《きち》という男で表向きは写真屋だったが、そいつがとんだ悪党で、戦争まえにはエロ写真かなんかの撮影で、なんどか挙げられたことがある男じゃ」  エロ写真……と、聞いて金田一耕助は思わず等々力警部と顔を見合わせた。きょう暖炉のなかで発見されたあの写真が、なにかそれと関係があるのではあるまいか。しかし、ことしは昭和三十五年である。戦争まえといえば少なくとも十五年以上も昔のことだが、それがなんらかの意味でこの事件に尾をひいているのであろうか。 「ふむ、ふむ、それで……」 「いや、なに、上野あたりから家出娘をひっぱってきて、そいつを裸にしていかがわしい写真をとって売りさばく。そんなことをしていたようじゃよ。戦後は戦後で桃色クラブというのかな、そんなのを組織しおって、よくここへ相当の紳士淑女がお集まりで、エロ映画を見させたり、裸ダンスのパーティをやったり……ただし、これは|噂《うわさ》だけだよ、わしの耳にしてるのはな。そういうことならお宅の一柳君のほうがよく知ってるはずじゃ。とにかく古谷磯吉、ひととおりやふたとおりの悪党じゃなかったよ」 「それで、その古谷磯吉という男はその後どうしたのかね」  等々力警部の声はきびしかった。 「死にましたよ」 「いつ」 「あれは昭和二十六年のことですからいまから九年まえのことですよ。秘密パーティ……すなわち裸パーティのまっ最中にやっこさん、感極まったとみえて|極楽往生《ごくらくおうじょう》しちまったんです。それがキッカケで秘密クラブのからくりが外部へもれ、当時相当世間を騒がせたもんですが、あんたがたはご記憶じゃございませんか」  金田一耕助と等々力警部は思わず顔を見合わせた。そういえばそういう記事が新聞をにぎわせたのをおぼえている。クラブのメンバーには上流階級の男女が多く、そのために捜査が途中で打ち切られたのであった。 「ああ、あの家だったのか……?」  と、等々力警部はあらためて部屋のなかを見まわした。  その後、女占い師の占い部屋として作りかえられているものの、いやに秘密めいた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は当時から持ち越しているものではないか。 「それで、いつごろからあなたのものになったんですか」 「昭和三十年です。古谷磯吉には正式の妻がなく、|妾《めかけ》か内縁の女房みたいなのがしょっちゅう変わってたんですが、最後の女と磯吉の弟とのあいだに、この家の所有権に関してゴタゴタがあったようですが、結局わたしが譲りうけて、その金をふたりが山分けしてどうやら収まりをつけたようでした」 「その女と弟の名前や住所は……?」  日比野警部補はふたりの名前をひかえていたが、あとになってふたりはこんどのこの事件に全然無関係だということがわかった。 「ところであの猫ですがねえ」  と、この質問は金田一耕助である。 「あんなにたくさん猫を飼っていたというのは、なにかドクトル・ハマコの職業に関係でもあったんですか」 「まさか……」  と、糟谷天民氏は苦笑したが、 「いや、そりゃそうかもしれません。よく占いをするときにゃ、黒猫を|膝《ひざ》の上に乗っけてたといいますからな。なんというか、神秘性を強調してたんじゃないですか。ただし、あんなに猫がふえたというのは、あの女の猫好きを知って近所のものが捨てていくんですよ。あの女も猫を利用しているてまえ粗末にもできなかったとみえ、しだいにふえてったってわけです。もっとも好きも好きだったんでしょうな。きらいならあれだけたくさんの猫にとりかこまれてちゃ、いっときも辛抱できんでしょうからね。そこでひと呼んで|猫館《ねこやかた》……どっちにしても縁起でもない家になりました」  糟谷天民氏が|溜《ため》|息《いき》をついたのは、さて、将来この家をどう処分したらよいかと思案しているのかもしれない。 「それにしても猫の首をちょん|斬《ぎ》ってあるのはどういうことでしょうねえ。なにかああいうおまじないでもあるんですか」  日比野警部補の質問である。 「さあ、どうですかねえ」  糟谷天民氏は|暗《あん》|澹《たん》たる|口《くち》|吻《ぶ》りで、 「わたしにゃわかりませんよ。ずいぶん残酷なことをやったもんで……」  糟谷天民氏はぶるッとはげしく身ぶるいをしたのは、あの残酷シーンを思い出した、ただそれだけのことであろうか。それともほかに重要な意味でもあるのではないか。 「ときに松崎喜美子という娘さんですがねえ。お宅の幼稚園の保母をしているとか……」 「はあ、あの娘がなにか……?」  糟谷天民氏はできるだけさりげなくふるまっていたが、松崎喜美子の名が出たとたん、ギクッとしたらしいのをかくし切れなかった。 「あの娘さんとはどういう関係があるんですか。先生にいろいろお世話になってるとか、さっきいってましたが……」 「ああ、それ、……それゃなんでもないんです。あの娘、戦災孤児なんでしてねえ。それを家内が拾ってきたのが昭和二十年の秋ごろのことでした。その当時かぞえで十二でしたが、その後ずうっとひきつづいて家内が面倒を見てき、学校なども出してやり、短大を出てから幼稚園の保母をやらせている、ただそれだけの関係なんですが、ほかに身寄りがないものだから、われわれをまあ、実の親みたいに慕ってる……と、ただそれだけのことなんです」 「ああ、なるほど、それじゃもう一度あの娘さんをここへ呼んでくださいませんか」  糟谷天民氏はちょっと不安そうに一同の顔を見まわしたが、軽く頭を下げるとこの奇妙な占い部屋から出ていった。     赤いセーターの男  昭和二十年でかぞえどし十二とすると松崎喜美子はことし昭和三十五年で二十七歳になる勘定である。しかし、打ち見たところせいぜい二十四か五にしか見えないのは、小造りでポチャッとした美人のせいだろう。境遇のせいか、どこか|淋《さび》しそうなかげはおおうべくもないが、にっこり微笑するえくぼに|愛嬌《あいきょう》のある娘だ。  糟谷天民氏と入れちがいに入ってくると、 「なにかご用でございましょうか」  と、口のなかで消えるようである。 「いや、ちょっと……もう一度きょうのことを確かめておきたいんですが、あなたがむこうにある死体を発見なすったんですね」 「はあ……あの、いえ、厳密にいうとうちの幼稚園の子どもさんたちなんですけれど……」 「そうそう、血に染まった猫が幼稚園へ迷いこんできた。そこで子どもさんが三人でやって来てこれを発見した……」 「はあ、それで子どもさんたち幼稚園へ帰ってきて、むこうでママさんが殺されてる、猫が死んでるって気が違ったように騒ぎますでしょう。それでなんのことかと来てみますと……」  喜美子はゾーッとしたように|華《きゃ》|奢《しゃ》な体をふるわせた。 「それであなたはすぐに交番へ知らせたのでしたね」 「はあ、なぜそのまえに自分に知らせなかったかと、先生にお|叱《しか》りをうけましたけれど……」 「そのときあんたはあの部屋のものに手をつけたりしやあしなかったろうね」 「はあ」  喜美子はちょっと考えて、 「それは多少……なにしろすっかりびっくりしてしまったものですから……でも、なにか持ち出したりしやあしなかったかという意味でしたら、それはそんなことございません」 「あなたドクトル・ハマコをご存じでしたか」 「はあ、それはすぐ近所に住んでますから」 「あんた住居はどちら?」 「幼稚園のなかにお部屋を|頂戴《ちょうだい》しております。しかし……」 「しかし……?」 「あたし、どちらかっていうとマダムよりも阿津子さんのほうがご懇意でした。年齢が接近してるもんですから」 「阿津子というのは内弟子の佐藤阿津子のことだね」 「はあ」 「その阿津子の姿が見えないんだが、きみ、心当たりはないか」 「いや、べつに……それほどのお|交《つき》|際《あい》でもございませんから」 「どうもありがとう、それじゃこれくらいで」  そのあと金田一耕助は等々力警部といっしょに猫館の周囲を歩いてみた。  ゆうべの集中豪雨はいたるところに惨害のあとをとどめていた。ことに裏の崖からはおびただしい土砂が流れ落ち、その|麓《ふもと》に|赤褐色《せっかっしょく》の粘土の山を築いている。まえにもいったようにこの崖下には、猫館が一軒しかなく、背後の|崖《がけ》のむかって右のほうに、さっき糟谷天民氏もいったとおり、|岨《そば》|路《みち》のような急坂がついている。その急坂もゆうべの集中豪雨の惨害をうけて、路が|縄《なわ》をよじったような形でえぐられている。  仰いでみると、なるほど、崖の上に赤いスレートぶきのアトリエのような建物が見えた。  この猫館と山陽寺の境内のあいだには破れた垣根がボロボロになっているだけで、これといったしっかりとした|土《ど》|塀《べい》は作ってなかった。だからそこから山陽寺の墓地へそのままつづいており、雨に打たれて黒ずんだ墓石や林立する|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》がすぐ眼のまえにひろがっている。なるほど、これではふつうの借家人には敬遠されるのもむりはない。墓地のなかには大きな|梧《あお》|桐《ぎり》の木が、ひろい葉をひろげてうなだれていた。湿度はおそらく九十パーセントを越えるだろう。そよとの風もない午後だった。冬になるとさぞ崖上から舞い落ちてくる落ち葉に悩まされることだろう。墓地の|一《いち》|隅《ぐう》に大きな落ち葉|溜《だ》めの落ち葉が、ゆうべの雨にぐっしょりと|濡《ぬ》れていた。  金田一耕助は足跡をもとめてそこらじゅうへ眼をやったが、怪しい足跡があれば、捜査員がすでに発見しているはずである。犯人がたとえ足跡を残したとしても、それはおそらくゆうべの雨で洗い流されてしまったことだろう。  岨路は急ですべりやすかった。ことにゆうべの豪雨で粘土層が露出しているので、金田一耕助のような着物に|袴《はかま》の男にとっては、崖の上までたどりつくには相当の|難行苦行《なんぎょうくぎょう》だった。 「やあ、ご苦労さま、警察のかたですね」  等々力警部と金田一耕助がすべりやすい路を、やっと踏みしめ踏みしめ崖の上までたどりついたとき、頭の上から声をかけられ、ぎょっとして頭上を振り仰いだ。真っ赤なセーターにサンダルをひっかけた男が、きまじめな顔をして上からふたりを見おろしていた。 「あなたは……?」 「ぼく、上条恒樹というもんです。ぼくのことを聞いて訪ねてこられたんじゃないですか」 「ええ、そう、ちょっと……」 「いや、じつはいまぼくのほうから降りていこうと思ってたとこです。いま外出先から帰ってきて、事件のことを聞いたもんですからね。さあどうぞこちらへ」  ふたりが案内されたのは赤い屋根のアトリエをむこうに見る、開放的な応接室だった。日本間を洋間に使っていて、畳の上に|絨毯《じゅうたん》をしき、その上に|椅《い》|子《す》テーブル。 「いいお住まいですがおひとりですか」  警部があたりを見まわしながら尋ねると、 「あっ、それじゃお|訊《き》きじゃなかったんですか」 「なにを」 「妻……|冴《さえ》|子《こ》といったんですが去年の秋亡くなりましたよ」 「それはそれは……」 「その妻が下のマダムとご懇意にねがっていたんで、それでぼくもちょくちょく、妻の死後もおうかがいしてるんですがね」  金田一耕助はじっと相手の顔を見ながら、 「奥さんのご病気はなんでした。長らく寝込んでいらしたんですか」 「いいえ、睡眠剤ののみすぎでした。長いことノイローゼに悩んでいたんです。それでつい崖下のマダムを信仰するようになったんですね」  上条恒樹の声は沈痛だった。 「それで、ゆうべあなたは崖下へは?」 「とんでもない、あの豪雨のなかをとってもとっても。しかしとんだことだったそうですね」  上条は放心したような調子になっていた。     落ち葉溜め  それから三日ほどして金田一耕助が、なにげなく警視庁の捜査一課、第五調べ室へ出向くと、 「やあ、金田一先生、どうやら例の一件も目鼻がつきそうですよ」  と、等々力警部ははなはだ威勢がよかった。 「ああ、そう、それはけっこうですね。で、犯人は?」 「例のエカキの上条恒樹ですよ。こないだやっこさん|嘘《うそ》をついてだましてたんですよ」 「と、おっしゃると……?」 「いや、これは聞き込み捜査の勝利というべきでしょうがね。あの晩、六月四日、ドクトル・ハマコが殺害された晩ですね」 「はあ、その晩、どうかしたんですか」 「あの崖上の住人のなかに上条恒樹があの岨路をつたってあがってきたのを目撃したものがあるんです。ちょうど集中豪雨が来る直前のことだったそうですがね」 「なるほど、それで上条氏はそれについてなんといってるんです」 「いや、それがバカなことをいってるんですよ」 「バカなことって?」 「いや、あの家へ行ったことは認めてるんです。それからあの寝室へ入ったことも自供しました。しかし、そのときすでにマダムは床の上で絞殺されていた……と、そこまではまだいいとして、そのときマダムは上着をちゃんと着ていたし、それから猫の死体なんかなかったというんです」  金田一耕助はギョッとしたような眼で等々力警部の顔をうかがうと、 「なるほど、それで……?」 「そんなバカなことってあるはずがありません。上条のいうことがほんとうだとすると、犯人はマダムを絞殺したのちにどこかへ姿をかくしていた。そして、上条が立ち去るのを見とどけて、猫を殺し、マダムの上着をはいで逃げ出した……と、そういうことになりますが、そんなこと常識では考えられないことです」 「しかし、上条氏が犯人とするとなぜそんなことをやったんでしょう」 「さあ、そこをいま追及してるんですがね」  金田一耕助はしばらくだまって考えていたが、 「ときに内弟子の佐藤阿津子という娘はどうしました。新聞によるとまだゆくえがわからないそうですが……」 「ああ、そうそう、その娘ならあの晩、集中豪雨が襲来してからまもなく、この坂下の幼稚園のまえを急ぎ足で日暮里のほうへ行く姿をハッキリ見たというものが、ふたりまであるんですが、それきりゆくえがわからないんです」 「その目撃者は阿津子の顔をハッキリ見てるんですか」 「いや、それは……なにしろあの集中豪雨の最中ですから……しかし、阿津子はマダムと同じ、|靴《くつ》の|爪《つま》|先《さき》までとどきそうなスカートをはいてるそうですから、これはまちがいないでしょう。と、するとマダムが殺害されたあとですから、その娘と上条との関係をいま追及してるところなんですがね」  金田一耕助は無言で、第五調べ室のなかを行きつもどりつしていたが、急に立ちどまると、 「警部さん、あの血の鑑定はしたでしょうね」 「それはもちろんやりましたよ。ありゃまちがいなく猫の血でしたよ」 「それ、あの血の全部をやられたんですか。ひょっとすると床の|絨毯《じゅうたん》に吸いこまれた、ごく一部分を採集していって鑑定されたんじゃないですか」 「金田一先生、そ、それ、どういう意味ですか」 「いや、これはぼくの当てずっぽうの推理ですが、そこに|若干《じゃっかん》の人間の血が流れていたんじゃないか。そして、それをカモフラージュするために、あの猫の血が流されたんじゃないか」 「すると、犯人もどこか|怪《け》|我《が》をしていると……?」 「いや、犯人ならまだいいんですが、そこにもうひとり被害者がいるんじゃないかと……」 「金田一先生!」 「いやいや、なぜ、ぼくがこんな|突《とっ》|飛《ぴ》なことをいいだしたかというと、じつは山陽寺の墓地にある落ち葉|溜《だ》めのことなんです。あの落ち葉のなかには黒く|腐蝕《ふしょく》した落ち葉がかなり表面に出ていたんです。と、いうことは最近あの落ち葉溜めをだれかがひっくり返したんじゃないかと思うんです。念のためにそこをもう一度調べてごらんになったら……?」  金田一耕助はそこまでいうとひょっこりともじゃもじゃ頭を下げ、出ていった。  この事件には結局わからないことが数多く残されている。  落ち葉溜めのなかからははたして死体が掘り出された。それは集中豪雨のさなかに逃げ出していったはずの内弟子の佐藤阿津子であった。阿津子は上着の上から心臓をえぐられていた。しかも、不思議なことにはこのほうはスカートがぬがされて持ち去られているのである。  そこでこういうことになるのではないかと推理される。上条氏が逃げて帰ったあと、阿津子が外から帰ってきた。それを犯人が待ち伏せして、鋭利な刃物で刺し殺した。そのとき返り血を浴びて犯人は外出しにくくなった。  そこで阿津子のスカートとハマコの上着を着用し、阿津子になって豪雨のなかを逃げ出したのではないか。と、すると、犯人は女ということになるのだが……。  この答えはすぐ出てきた。阿津子の死体が掘り出されるとまもなく、山陽幼稚園の保母、松崎喜美子の服毒自殺死体が発見された。しかし、彼女はあとになんの遺書も残さなかったので、犯行の動機はハッキリとわかっていない。  ただ、画家上条恒樹氏の告白によると、昭和二十五年ごろ、氏はまだシベリアに|抑留《よくりゅう》されていた。その留守を守っていた妻の冴子はあやまった女性の解放感から、猫館のまえの住人、古谷磯吉の秘密パーティにかなりしばしば出入りしていたらしいという。さいわい、上条氏が復員するとまもなく古谷が|頓《とん》|死《し》したので、この秘密はいちおう葬られたかたちになっていた。  ところが悪党古谷はひそかに会員のいかがわしいポーズを写真にとっておいて、後日それをユスリの種に使うつもりだったらしい。そのかくし場所を偶然ドクトル・ハマコが発見し、上条氏の妻冴子も彼女にゆすられたあげく自殺したものらしいという。  古谷の頓死した昭和二十六年には、喜美子もかぞえで十八歳。ひょっとすると一度か二度、そのパーティへ引っ張りこまれて、知らぬまにいかがわしい写真をとられていたのではないか。そして、それをタネにドクトル・ハマコにゆすられていたのではないか。  それにしても阿津子の死体を落ち葉溜めまで運んでいくのは、女の力ではおぼつかないことだ。糟谷天民氏が事情を知りながら喜美子を|不《ふ》|憫《びん》に思い、彼女をかばおうとしていたのではないか。  しかし、婆やの辻本咲子まで殺害されていると知ったとき、糟谷氏の|憐《れん》|憫《びん》の|情《じょう》も消えうせたことだろう。  いい忘れたが服毒自殺をとげた喜美子の部屋の|火《ひ》|鉢《ばち》のなかには、焼きすてられた写真の灰がうずたかく盛りあがっていたという。うまくいったらこんどは彼女が、脅迫者になるつもりだったのではなかろうか。    |雌《め》|蛭《ひる》     金田一耕助変装す  卓上電話の受話器をおくと、|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》は腕の時計に眼をやった。  時刻は夜の十時である。  金田一耕助は受話器の上に軽く右手をおいたまま、奇怪ないまの電話の内容を、頭のなかで繰りかえしていたが、急に思いついたように、小卓の下から電話帳を取りあげた。  分厚い電話帳をやっこらさとデスクの上に取りあげると、金田一耕助はページをくって、|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》アパートというのを調べていたが、それがわかると、デスクの上に電話帳を開いたまま、受話器をとって左手でダイヤルをまわしはじめた。  電話はすぐに通じて、 「ああ、もしもし、こちら聚楽荘アパートでございますが……」  と、交換嬢のきれいな声が受話器をとおして聞こえてくる。 「ああ、そう、それじゃおそれいりますが、四階の八号室へつないでくださいませんか」 「四階の八号室でございますね」 「ええ、そう」 「少々お待ちくださいまし」  金田一耕助は受話器を耳にあてたまま、聚楽荘アパートの四階、八号室の住人が電話のむこうに出てくるのを待っていた。じつをいうと金田一耕助は、聚楽荘アパートの四階、八号室の住人というのが、どういう人物なのか知っていない。男であるか女であるか、それさえわかっていないのである。  それだけに金田一耕助は、どういう人物が電話のむこうに出てくるかと、少なからぬ好奇心をもっていた。ただし、それはもし出てくるとすればである。出てこない公算のほうが大きかった。  果たして、たっぷり三分待たせたのち、交換嬢の声が聞こえてきた。 「ああ、もしもし……」 「はあ、はあ……」 「四階の八号室でございますが、いくらお呼びしてもお出になりません。お留守じゃないでしょうか」 「ああ、そう、いや、ありがとうございました」  金田一耕助はよっぽど四階八号室の住人とは、どういう人物なのかと聞いてみたかったのだが、それでは交換嬢の疑惑を招くおそれがあった。それに聚楽荘アパートとは相当大きなアパートらしいから、交換嬢がいちいちそこの住人を、知っているかどうかも疑問であった。  金田一耕助は受話器をおくと、またしばらく部屋の一点に視線をこらしたまま、さっきの電話の奇怪な内容を、頭のなかで繰りかえしていたが、急にまた思いついたように、卓上電話の受話器を取りあげると、なじみのガレージへ電話をかけて、ハイヤーを一台注文した。  腕時計に眼を走らせると、時刻は十時八分である。  金田一耕助は思い出したように|椅《い》|子《す》を立って、壁にかかっている|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の鏡のまえに歩みよった。  鏡にうつった金田一耕助は、あいかわらず、いつ|梳《くしけず》ったともわからぬもじゃもじゃ頭が|雀《すずめ》の巣のように|逆《さか》|立《だ》っている。服装といえばなんど水をくぐったともわからぬ|小《お》|千《ぢ》|谷《や》|縮《ちぢ》みに、|襞《ひだ》もよれよれの|夏袴《なつばかま》。  金田一耕助は鏡にむかって苦笑すると、壁のまえをはなれて、つぎの部屋へ入っていった。つぎの部屋は寝室である。  二分ののち寝室から出てきた金田一耕助を見ると、|鼠色《ねずみいろ》のズボンに派手なチェックのアロハを着ている。鏡にむかってベレー型のハンチングをかぶると、どうやら雀の巣のようなもじゃもじゃ頭もゴマ化せた。  こうして洋服を着ている金田一耕助を見ると、この男がなぜふだん和服で押し通しているのか、その理由がわかりそうである。着物に袴の金田一耕助も、貧相で|風《ふう》|采《さい》のあがらぬ人物だが、洋服姿の金田一耕助は、いっそうその印象が強いのである。  なるほど、これではこの男が洋服を忌避するのもむりはない。  金田一耕助は金田一耕助なりに、これで変装ができあがると、かれは書架から東京都の区分地図を取りあげて、渋谷の部をデスクの上に大きくひろげた。聚楽荘アパートというのは、渋谷のS町にあるのである。  金田一耕助が地図の上を指で拾って、だいたいの見当をつけたところへ、表のほうへ自動車が来てとまる音がして、サイレンの音が三度聞こえた。  金田一耕助は|緑《みどり》ケ|丘《おか》|町《まち》の高級アパート、緑ケ丘荘の二階三号のフラットで、|蛆《うじ》もわくという男やもめの暮らしをしながら、当人はべつに|淋《さび》しいとも、不自由とも感じていないようである。  もう一度渋谷の地図を調べたあとで、それをたたんで書架へかえしたところへ、電話のベルが鳴りだした。管理人の|山《やま》|崎《ざき》さんから、自動車が来たことを知らせてきたのである。 「ああ、そう、いますぐ行きます」  受話器をおいた金田一耕助は、デスクのひきだしを開いて、なかから眼鏡のケースを取り出した。ケースのなかにあるのはべっ甲ぶちの眼鏡である。色のついた眼鏡は、かえってひとの注目をひきやすいことを知っているので、金田一耕助の変装用の眼鏡は|素《す》|通《どお》しである。  鏡のまえへ行ってその眼鏡をかけてみると、なるほど日ごろの金田一耕助とは、だいぶん趣が変わっている。ひとはこういう|風《ふう》|態《てい》の金田一耕助を、いったいなんと見るであろうか。  金田一耕助は鏡にむかってニヤリと笑うと、眼鏡をはずしてケースにおさめ、アロハのポケットに突っ込んだ。それからちょっと考えたのち、ベレー型のハンチングも脱いで、ズボンの|尻《しり》のポケットに押し込んだ。  変装しているということを、あまり露骨に知られることは、管理人の山崎さんや、顔|馴《な》|染《じ》みの運転手にたいして|極《き》まりが悪かったのである。  フラットを出てドアに|鍵《かぎ》をかけるとき、金田一耕助がもう一度腕時計に眼をおとすと、時刻は十時十五分。  金田一耕助はこれから大冒険を決行するかのように、胸を張ってフーッと大きく息をうちへ吸いこんだ。  あとから思えばかれの行く手には、ひとつの冒険が待ちかまえていたのである。     アパートへ行け  アームチェアー・ディテクティヴを気取っている金田一耕助が、いま述べた程度の変装にしろ、変装するということはいたって珍しいことである。  アームチェアー・ディテクティヴというのは、いたって|物《もの》|臭《ぐさ》な|探《たん》|偵《てい》さんの|謂《いわ》れである。自分はアームチェアーにふんぞりかえっていて集まってくる情報から事件の真相を推理|演《えん》|繹《えき》していくというのだから、腕力と運動神経に自信のない金田一耕助ごとき人物にとっては、うってつけの仕事かもしれなかった。  その金田一耕助が|柄《がら》にもなく変装などとしゃれこんで、のこのこ出かけていこうというのだから、今夜は少し変である。まさか赤本探偵小説の主人公に逆行したわけでもあるまいに。  ありようはこうである。  十時少しまえ、金田一耕助は未知の女性からの電話を聞いた。声だけではわからないが、金田一耕助はまだ若い女性であると判断した。いや、少なくともおばあちゃんでないことだけはたしかであった。 「金田一先生でいらっしゃいますか。金田一耕助先生でいらっしゃいますね」  と、念を押す女の声の調子には、なにかしら切迫したものが感じられた。 「はあ、こちら金田一耕助ですが、どなたさまでいらっしゃいますか」  金田一耕助がていねいに応対すると、 「いいえ、あの、それがまことに失礼ですが、いまのところ、ちょっと名前を申し上げかねるのでございますが」  私立探偵というような風変わりな職業に従事していると、こういう風変わりな電話にも、驚かない修練がついている。少なくともわれわれみたいに、ムッとなどしないものである。 「はあ、はあ、なるほど。……それでご用とおっしゃるのは……?」 「はあ、あの……名前も名乗らずにお願いするというのは、まことに失礼なんですけれど、これもよんどころない事情によるものと、お察し願いたいんですけれど……」 「はあ、はあ、いや、そういうこともちょくちょくございますよ。それで、ご用とおっしゃるのは……?」 「はあ、それが……電話でまことに失礼なんでございますけれど、あたし、いまとても急いでおりまして、そちらへお伺いするひまがないものでございますから……」 「はあ、はあ、なるほど。それで……?」 「はあ、あの、それで……」  私立探偵などというものは、およそ辛抱強くなければつとまるまい。依頼人はいずれも世間に知られたくないなにものかをもってくるのだから、用件を切り出すまでに、相当ひまがかかるのがふつうである。今夜の電話のぬしもそれであった。 「あの、もしもし、金田一先生、そこにおいででございましょうか」 「はあ、受話器を耳に押しあてて、お伺いしておりますよ。ご用を切り出されるまえにようく思案をしてくださいよ。こちらは気長にお待ちしておりますから……」 「はあ、あの、まことに申しわけございません。勝手ばかり申し上げて……」 「いえ、いえ、それがわたしの職業なんですから、どうぞご遠慮なく……」 「はあ、あの……はあ、あの……」  と、電話の声はさんざん金田一耕助に気をもたせたのち、やっと用件らしきものを切り出した。 「わたくし、いま渋谷のS町の停留所の近くの、公衆電話からお電話しているのでございますが……」 「はあ、はあ、なるほど、それで……」 「はあ、あの、この近くに聚楽荘アパートというのがございます。ご存じかどうですか、ちょっとした高級アパートでございます」 「はあ、名前は聞いております。高級アパートだということも知っております。まだ行ってみたことはありませんが……それで……?」 「はあ、あの、その聚楽荘アパートにわたくし、ちょっとした忘れものをしてきたのでございます。アパートを出てからそれに気づいたのでございますが……」 「はあ、はあ、なるほど、それで……?」 「はあ……それで、まことに失礼ですが、先生に……金田一先生にその忘れものを取ってきていただきたいのでございますが……」 「ああ、なるほど……。聚楽荘アパートのどういう部屋でございますか」 「四階の八号室でございます。ドアに『|梅《うめ》|本《もと》』という表札が出ておりますけれど……」 「少々お待ちください。いまメモを取りますから……ええ……と、聚楽荘アパートの四階八号室、『梅本』さんというかたのお部屋でございますね」 「はあ、はあ、さようでございます」 「そこへあなたが忘れものをしていらした。その忘れものを取ってきてほしいとおっしゃるんですね」 「はあ、はあ……」 「その忘れものというのはどういう品でございましょうか」 「ハンドバッグでございます。黒と赤の革をはぎあわせて、|蟇《がま》|口《ぐち》のようなかたちをしたハンドバッグで、同じく黒と赤でないあわせた革のバンドがついていて、|提《さ》げるようになっておりますから、すぐおわかりになると思いますけれど……」 「なるほど、それを聚楽荘アパートの四階八号室へ、置き忘れてきたとおっしゃるんですね。部屋のどのへんかご記憶がございますか」 「あの、それが……その部屋は、ふた部屋ございまして、廊下を入ったとっつきが玄関、玄関のつぎが居間になっております。その居間のつぎが寝室になってるんでございますが、わたくしそのふた部屋のどちらへ置き忘れたか、記憶がないのでございますが……」 「なるほど。それでその八号室というのはドアが開いているんですか」 「いいえ、廊下のほうのドアには|鍵《かぎ》がかかっております」 「じゃ、どうしてぼくはなかへ入るんですか」 「はあ、それですから、わたくしこの公衆電話のボックスのなかに……ドアの上の|鴨《かも》|居《い》の上に、鍵をかくしておきますから……いますぐいらしてくだされば、だれも気がつかないと思いますけれど……」 「はあ、はあ、なるほど……それで、ハンドバッグを取ってまいれば、どちらへおとどけすればよろしいのでございましょうか」 「いいえ、それはまたいずれのちほど、お指図させていただきます。今夜はただそのハンドバッグを取ってきてくださればよろしいので……」 「ああ、なるほど……それでは、あのう……二、三質問させていただいてもよろしいでしょうか」 「はあ、あの、それが……」  と、電話の声はいかにも心苦しそうに、 「ご質問いただいてもお答えはできないかと思います。まことに身勝手なお願いなんですけれど、ただ申し上げたとおり行動していただきたいんですの。ああ、そうそう」  と、電話の声はおっかぶせるように、 「謝礼や費用のほうは、ハンドバッグを|頂戴《ちょうだい》するときに差し上げたいと思っておりますが、それでいかがでしょうか。ああ、ちょっと……」  と、電話のぬしはまたおっかぶせるように、 「たいへん、身勝手なお願いでございますけれど、ハンドバッグの中身をあらためたりなさらないで……先生、もし、金田一先生」  と、電話の声にはなにかしら、必死に思いこんでいるような調子があった。 「はあ、はあ、どうぞ」 「先生、ほんとに助けると思って……女ひとりを助けると思って、わたくしのお願い申し上げたとおり行動してください。後生です、先生、ほんとに後生でございますから……」  と、その声は涙にうるんでいるように、金田一耕助の|鼓《こ》|膜《まく》にひびいた。  金田一耕助はちょっと考えたのち、 「それじゃ、奥さん……ああ、いや、失礼いたしました」  ひょっとするとまだミスかもしれないと考えて、金田一耕助は前言を取り消すように急いで言葉をつぐと、 「いまおっしゃったことを簡単に|復誦《ふくしょう》させていただきます」 「はあ、はあ、どうぞ……」 「それじゃ、ぼくはこれから渋谷S町の停留所のそばにある、公衆電話へ出向いていく。そこのドアの上の鴨居の上にあなたが鍵をかくしていかれる。そうでしたねえ」 「はあ、はあ、さようでございます」 「その鍵をもって、ぼくは聚楽荘アパートの四階へ出向いていく。聚楽荘アパートにはエレベーターがございますか」 「エレベーターもございますけれど、なるべくならばそれをご利用なさらないで……」 「と、いうことは、ひとに見とがめられることを避けるという意味でしょうか」 「はあ、あの……」  と、女はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、 「それは先生のご想像におまかせいたします」 「ああ、そう、それじゃ……それから四階の八号室、『梅本』という表札の出ている部屋へ入っていく。そうすると、居間か寝室のなかに赤と黒との革のハンドバッグがある。それを取ってきてぼくが保管しておく。そして、奥さん……いや、あなたのつぎの指令をお待ちしている……と、だいたい以上のとおりでございますね」 「はあ、あの……くどいようでございますけれど、ハンドバッグの中身を調べたりなさらないで……」 「はあ、はあ、……ところが、奥……いや、あの……もし、ぼくがこのご依頼を拒絶したら、あなたはどうなさるおつもりですか」 「先生!」  電話のむこうで叫ぶ女の金切り声が、いたいほど金田一耕助の鼓膜をつらぬいた。 「そんな、そんな! そんな残酷なことおっしゃらないで。先生、後生です、金田一先生!」 「ああ、そう、じゃ、とにかくお引き受けいたしましょうか」 「どうぞ、どうぞ、先生、後生です、後生ですから……」  と、女の声はまた涙にうるんでいるようだった。 「承知いたしました。それじゃとにかく奥さん、いや、あなたのおっしゃるとおり行動いたしますから、どうぞご安心ください」 「先生!」  と、女は|咽《の》|喉《ど》のつまったような声で、 「ありがとうございます」  つづいてガチャンと受話器をかける音が、にぶく金田一耕助の耳にひびいた。     |噫《ああ》! 無残!!  金田一耕助が聚楽荘アパートの正面入り口から、まるでこのアパートの住人のような顔をして、なかへ入っていったのは昭和三十×年の八月五日、午後十一時ごろのことである。  S町の都電停留所の近くにある、公衆電話のボックスへ入って、さりげなくドアの上の|鴨《かも》|居《い》をさぐると、うずたかく積もった|埃《ほこり》のなかに、たしかにひとつの鍵がおいてあった。  ひょっとすると、だれかの|悪《いた》|戯《ずら》ではないかと、ほんのちょっぴりだが胸にきざしていた疑惑の念も、これでいちおう|払拭《ふっしょく》されたわけである。いや、いや、金田一耕助は思いこんだような女の声の調子から、まんざら悪戯だとは思えなかったのだが……。  公衆電話のボックスを出るまえに、かれは尻のポケットから、ベレー型のハンチングを出してかぶり、べっ甲ぶちの眼鏡をかけた。これで金田一耕助の今夜の変装はいちおう完成したわけである。  聚楽荘アパートはこの公衆電話のボックスから、歩いて五分ぐらいの距離にあった。都電の路線から少しおくまったところにあり、渋谷駅に近く交通の便利なわりには、環境は静かで落ち着いていた。  金田一耕助はこのアパートへ入るまえに、いちおう外部から|偵《てい》|察《さつ》することを怠らなかった。  近ごろはやりのマンモス・アパートというほどではないが、八階建ての各階には、少なくとも二十ぐらいはフラットがありそうである。ガラスをふんだんに使った近代建築で、|灯《あか》りのもれている窓のほうが、灯りの消えている窓よりも多いところを見るといまだ起きている居住者のほうが多いのであろう。  むりもない。半月以上一滴の雨も見ない東京では、このところ連日三十度以上の猛暑がつづいて、夜に入っても気温は思うように下がらない。高級アパートといえども、冷房装置まではいきとどいていないので、居住者も寝苦しくて眠れないのだろう。ことに今夜はむし暑かった。  正面入り口から入っていくと、階段の左にエレベーターが三台ついていた。エレベーターがついているので、階段はあまり広くない。金田一耕助はなんの躊躇もなく階段をのぼりはじめた。  階段をのぼる金田一耕助の足どりは、ゆうゆうたるものである。かれはまだ行く手になにが待っているのか知っていない。また、それを考えようともしなかった。よけいな先入観は事実をみる眼を狂わせる場合がある。金田一耕助はそんな|馬《ば》|鹿《か》なことはしないことにきめている。  三階へあがるまでにかれはだれにも会わなかった。会ったって構わないのである。これだけ大きなアパートなら居住者も多く、またそこを訪れる来客も相当たくさんいるはずである。いちいち来訪者を注目するはずはないであろう。ただ、あまりにも眼につきやすい金田一耕助の表看板であるところの、着物に|袴《はかま》に|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭だけは、避けなければならなかったのだ。  とうとう四階まであがるあいだ、金田一耕助はだれにも会わなかった。ただ、エレベーターから出てきたひとが、廊下を歩いていくのが見えるだけである。みんな暑さにうだりきっているので、他人に注意している余裕などなさそうである。  このアパートは各階ともに、一号室からはじまっているらしい。そして、同じナンバーの部屋は、各階の同じ位置にくらいしているようである。八号室はエレベーターを出るとすぐ眼のまえにあることを、金田一耕助は四階へあがるまでにたしかめていた。  四階八号室。  なるほど、ドアの横に『梅本』という表札が出ているが、|苗字《みょうじ》だけで名前がないので男だか女だかわからない。  あたりを見まわしたがさいわいに人影はない。金田一耕助は右手だけに薄い手袋をはめていて、左手はアロハのポケットにつっこんだままである。手袋をはめた右手でドアの|把《ノ》|手《ブ》をひねってみたが、なるほど|鍵《かぎ》がかかっているようだ。  金田一耕助はもう一度あたりを見まわしたのち、鍵を鍵穴にさしこんだ。ガチャリと音がして錠がはずれたとたん、エレベーターのあがってくる音がした。  金田一耕助は鍵を抜く手ももどかしく、両手をアロハのポケットにつっこんだまま、八号室のまえをはなれると、ひとつひとつドアの表札をながめながら歩きはじめる。  エレベーターは四階にとまって、男がひとり吐き出された。エレベーターはその男を吐き出すと、そのまま上へあがっていく。  エレベーターから吐き出された男は、そこに金田一耕助の姿を認めると、ちょっと立ちどまったようだったが、すぐまた歩き出すと、金田一耕助のそばを通って廊下をまっすぐに進んでいく。  その男がそばを通るとき、金田一耕助は吐き出すようにつぶやいた。 「ちっ! それじゃ五階だったかな」  くるりとむきを変えると、金田一耕助はスタスタと階段のほうへひきかえした。五階への階段へひと足かけて、それでも念のためにたしかめておこうとするかのように、金田一耕助があたりを見まわしているとき、廊下の|角《かど》をまがろうとしたさっきの男がふりかえった。  金田一耕助は階段に片足をかけたまま、もう一度あたりを見まわしたのち、小首をふりふり二、三歩階段をのぼっていった。それを見てすれちがった男も廊下の角をまがって姿を消した。金田一耕助はすばやく階段をかけおりると、すぐ眼のまえにある八号室のドアのなかへ飛びこんだ。  ちょっとしたスリルである。  電話のぬしと『梅本』なるこの部屋のぬしとの関係がわかっていない以上、悪くすると家宅侵入罪に問われるおそれがある。  ドアのなかは、狭い形式的な玄関になっており、玄関のつぎが六畳くらいの洋風の居間。この居間へ入ってみて、梅本なる表札のぬしが女性であるらしいことがわかった。家具調度、すべてがまだ若い女性のものであり、しかも、相当ぜいたくな暮らしをしていることがわかるのだ。  部屋のぬしが女性とあっては、金田一耕助はいよいよ戒心しなければならなかった。目的を果たして一刻も早くここを出ていかなければならぬ。  |素《す》|早《ばや》く見まわしたところでは、どこにもハンドバッグはなさそうだった。それではつぎの寝室なのか。  寝室のドアはぴったりしまっていたが、鍵はかかっていなかった。金田一耕助は依然として、左手はアロハのポケットに突っこんだままである。手袋をはめた右手で把手を握って、ドアを開いたとたん、金田一耕助は思わず背後にたじろいだ。  強烈な酸の|匂《にお》いがいきなり金田一耕助のおもてをおそってきたからである。あまり広からぬ部屋いっぱいに立てこめている強い酸の気が眼にしみて、金田一耕助は思わずポロポロ涙がこぼれた。強烈な酸の匂いが|鼻《び》|孔《こう》をおそって、金田一耕助はゴホンゴホンと、|咳《せき》をした。  しかも、金田一耕助はドアを開いた|刹《せつ》|那《な》、広いダブルベッドの上に、だれやら横たわっているのを目撃したのだ。  いったんドアの外に退いた金田一耕助は、眼をつむったまま深呼吸をした。それから左手でハンケチをさぐりだすと、眼鏡をとってしずかにあふれ出る涙をぬぐった。こんど眼を開いたとき、金田一耕助はさっきほどの強い刺激は感じなかった。  それでもあらかじめ窓のありかをたしかめておいて、部屋へ入るとすぐ窓ガラスを押し開いた。|生《なま》ぬるい夜気が流れこんできて、強烈な酸の気による窒息感も、いくらか薄らいだようである。  金田一耕助はベッドの上に横たわっているものに眼をやって、思わずムーンとうなってしまった。うならざるをえないものがそこに横たわっていたのだ。  それは|相《あい》|擁《よう》した男と女の裸体であった。女はネグリジェ、男はパジャマを着ていた。女は仰向けに横たわり、男は上から女の体を抱いていた。  だが、問題はふたりの顔である。硫酸のために男も女も無残に顔面を焼かれていて、ペロリと皮のむけたその顔は、赤くはじけたドロドロの肉塊でしかなかった。血と肉となにやらえたいの知れぬもやもやしたものと……そして、強烈な硫酸の匂い。肉のこげる|香《か》……。  だが、これ以上ふたりの顔の惨状を、なまなましく描写することはさしひかえなければなるまい。それは読者諸君に不快感をあたえるばかりだから。  金田一耕助は素早くふたりの男女を観察した。上になっている男の肉付きや|肌《はだ》の|色《いろ》|艶《つや》から、金田一耕助は三十五、六と推定した。女はおそらくそれよりいくらか若いという年ごろなのだろう。  ふたりの抱きあったベッドの下に、赤と黒とのハンドバッグが落ちている。ハンドバッグの口金が開いていて、なかから二、三のものが|床《ゆか》の上にこぼれ出ていた。  金田一耕助はそのときはじめて、電話の女がなぜ自分に白羽の矢を立てたのか、その理由がわかるような気がしてきた。  電話の女はとてもこの現場へ、ひきかえしてくる勇気はなかったにちがいない。とはいえ|滅《めっ》|多《た》な人物には頼めないわけである。もしそのひとに殺人の疑いがかかってはならないからだ。その点、警視庁に|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部という知己をもつ金田一耕助ならば、殺人容疑に関するかぎり、大丈夫だと思ったのであろう。  金田一耕助は身をかがめて、ハンドバッグを取りあげると、床にこぼれているルージュや小さな手帳を拾いあげて、ハンドバッグのなかにしまいこんだ。  金田一耕助の今夜の使命は、これを取り返すだけのことである。そのことは事件の捜査を妨害することになるかもしれない。しかし、金田一耕助は依頼人にそれを約束したのだから、|履《り》|行《こう》しなければならぬ義務がある。あとは警察の仕事なのだが、こととしだいによっては、またべつの角度から、捜査を手つだってもよいとは思うのだが……  それにしても、もっとほかにもハンドバッグから、こぼれ出したものはないかとあたりを見まわしているとき、表のドアをノックする音が聞こえた。 「マサ子さん、マサ子さん」  ノックの音のあとで男の声がした。あたりをはばかるような声なので、金田一耕助の疑惑をあおった。  金田一耕助はドアに鍵をかけておかなかったことを思い出して、あわててあたりを見まわした。この寝室にはどこにもかくれる場所はない。しいていえばベッドの下だが、うっかりのぞかれたらそれきりなのだ。  さいわい居間との境のドアは開けっ放しになっている。金田一耕助は足音をぬすんで寝室から居間へ抜けだした。 「マサ子さん、マサ子さん、梅本さん、ぼくです、|河《こう》|野《の》です。|健《けん》|太《た》です。お留守ですか」  ドアの外で忍ぶような男の声である。つづいて軽いノックの音。あきらかに男はひとめを忍んでいるのである。  金田一耕助は急いで部屋のなかを見まわした。梅本マサ子という女はかなりだらしない女だったにちがいない。居間のすみに|衣《い》|桁《こう》が立ててあるが、そこに脱ぎすてた下着の類や|靴《くつ》|下《した》などが、まるで虫干しみたいに垂れさがっている。  金田一耕助が素早くそのうしろへすべりこんだとき、ガチャリと|把《ノ》|手《ブ》をひねる音がした。 「なあんだ、いるんじゃないか。マサちゃん」  こんどはだいぶんなれなれしい|口《くち》|吻《ぶ》りになって、ドアを開いて男が入ってきた。用心深くうしろ手にドアをしめる音がして、 「マサちゃん、おれだよ、河野健太だ、健坊だ。マアちゃん、どこにいるんだい」  と、玄関から居間へ踏みこんできた男を衣桁のかげからのぞいてみて、金田一耕助はドキリと息をのみこんだ。さっきエレベーターから出てきた男だ。  あのときはなるべく顔を見られぬように、また自分のほうからも相手の顔を見ないようにしていたのだが、いま見ると三十前後の|華《きゃ》|奢《しゃ》な体格の男で、頭をG・I刈りにして、派手なアロハを着ているところが、好男子だが|気《き》|障《ざ》だった。  河野健太と、みずから名乗った男はキョロキョロと居間のなかを見まわしながら、 「マア公、どうしたんだい。ドアを開けっぱなしにして寝てるなんて、おまえも無用心な女だぜ。起きてこいよ。それともおれのほうから行ってやろうか。……おや」  と、河野は息をひくつかせながら、半開きになった寝室のドアを見ていたが、 「いったい、なんの|匂《にお》いだ。これゃ……」  ドアを開いて寝室のなかをのぞいた河野の体が、ギクッと大きく|痙《けい》|攣《れん》したのが、衣桁のかげの金田一耕助にもハッキリ見えた。  河野はしばらく棒をのんだように、寝室のなかをのぞいていたが、やがてあたりを見まわしてのち、ドアのなかへすべりこんだ。  三分……五分……。  寝室から出てから河野を見ると、手になにやら持っている。それがなんであるかがわかったとき、金田一耕助は思わず、しまった! と、口のなかでつぶやいた。  コンパクトだった。おそらくハンドバッグからころがりだして、ベッドの下へでもすべりこんでいたのだろう。河野は珍しそうにそれを調べていたが、やがてにやりと|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》むような笑いをうかべた。なんとなく邪悪な眼の色である。 「こいつはおもしろいものが手に入ったぜ。とにかくこれ、マア公のものじゃねえよ」  河野はそれをズボンのポケットにすべりこませると、玄関へ出て、用心深く廊下の様子をうかがっているようだったが、やがて足ばやに出ていった。  その足音が遠くかすかに消えていくのを待って、金田一耕助はもう一度寝室のなかをのぞいてみた。河野は五分あまりもこの恐ろしい寝室のなかにいたのである。いったいなにをしていたのだろう。  河野がなにをしていたのか、金田一耕助にはすぐわかった。  仰向けになった女の上に、男の体がのしかかっている。しかし、抱きあったふたりのポーズや死体の位置が、さっきと少しちがっているのだ。と、いうことは河野がこの恐ろしいふたつの死体をいじったことになるのだが、いったいそれはなんのためだろう。  それから数分ののち、S町停留所付近の公衆電話へとびこんだ金田一耕助は、忙しく一一〇番のダイヤルをまわしていた。     |閨《けい》|房《ぼう》の残虐  洗いざらしの|白絣《しろがすり》に、よれよれの|夏袴《なつばかま》、|尻《しり》がいくらかすりきれた|草《ぞう》|履《り》ばきといういでたちの金田一耕助が、ふらりと渋谷署の捜査本部へやってきたのは、事件の日からなかいちにちおいた八月七日の、うだるような午後のことである。  いまちょうど記者会見を終わったところとみえて、報道関係の連中が|蜘《く》|蛛《も》の子を散らすようにとび出していったあとから、忙しそうに出てきたのは、警視庁の新井刑事だ。 「やあ、金田一先生、ようこそ」  と、新井刑事は|額《ひたい》に汗をいっぱいにじませている。 「ああ、新井さん、さっき警視庁のほうへちょっと顔を出したら、警部さん、こちらのほうだとうかがったもんですから……」 「さあ、さあ、どうぞ。先生も事件のことは新聞でご存じでしょう」 「はあ、だいぶん酸鼻をきわめた事件のようですね」  |空《そろ》っとぼけている金田一耕助だが、いくらか良心のうずきがないでもない。 「はあ、もう……」  と、新井刑事は|眉《まゆ》をひそめたが、急に気がついたようにドアのなかへ首をつっこんで、 「警部さん、警部さん、金田一先生がお見えになっておりますよ」 「おっ!」  と、聞きおぼえのある声がして、 「金田一先生、どうぞ」  金田一耕助が部屋のなかへ入っていくと、等々力警部が暑さに上気した顔をてらてら光らせて、|椅《い》|子《す》からはんぶん立ちあがっていた。 「やあ、どうも。猛暑のおりからとんでもない事件が起こったもんですね」  記者会見が終わったので捜査陣もあらかた散って、部屋のなかに残っていたのは等々力警部と、まだ若い警部補のふたりきりだった。 「金田一先生、紹介しましょう。こちら|唐《から》|沢《さわ》君、この事件の担当者です」 「いやあ、金田一先生、ひとつよろしく願います。いやはや、まるで真夏の悪夢みたいな事件ですからね」  唐沢警部補が顔をしかめたのもむりはない。|検《けん》|屍《し》の結果わかったところによると、硫酸で焼かれていたのは被害者の顔ばかりではない。女も男も下腹部から|太《ふと》|股《もも》いったいをやられていて、それからみてもこの犯行の原因が情痴関係にあるらしいことは一目|瞭然《りょうぜん》だった。 「被害者は流行作家の|立《たち》|花《ばな》|慎《しん》|二《じ》氏だそうですね」 「そうです、そうです。これはもうまちがいはありません。金田一先生も新聞でごらんになったでしょうが、顔面はすっかり硫酸でやられてたんですが、さいわい立花は先年作家グループで指紋を登録したとき、協力してくれたんですね。それで身元がハッキリしたわけです」 「女のほうは……?」 「いや、これは立花氏ほどハッキリはしてないんですが、やはり部屋のあるじの梅本|昌《まさ》|子《こ》……じつは立花昌子のようです」 「ああ」  と、金田一耕助は驚いたように、 「それじゃ、ふたりは結婚してたんですか」 「そうです、そうです。これはついさっきわかったんですが、昌子は先月の二十八日に立花の妻として入籍しているんです」 「立花氏には別れた奥さんがあるそうですね」 「はあ、それがちょっと複雑でしてね。これは作家仲間の話でわかったんですが、梅本昌子の母は、昌子と|繁《しげ》|子《こ》とふたりの連れ子をして、立花氏の父と結婚したわけですね。だから、立花氏と昌子、繁子の三人は幼時からきょうだいとして育てられたわけです。郷里は静岡ですがね。ところが、その昌子の学校友達が、立花氏の別れた妻の|田《た》|辺《なべ》|泰《やす》|子《こ》です。つまり義理の妹の昌子の関係で立花氏と泰子とが接近し、結婚したわけです」 「ああ、なるほど、よくある例ですね」 「はあ、ところが立花氏は元来薬剤師なんですね。戦争中も薬剤師として応召し、戦後も郷里の静岡で病院に勤務していたが、薬剤師としてはべつに変わったことはなかったそうです。ところがいまから三年まえに、戦争中の体験をもととして長編処女作を発表したところ、|俄《が》|然《ぜん》それがベスト・セラーになり、流行作家にのしあがったので、夫婦して東京へ出てきたわけです。そのあとを追ってきたのが昌子です」 「義兄を友人にゆずったのが惜しくなってきたんですね」  と、そばから唐沢警部補が注釈をいれた。 「なるほど」 「それに……」  と、等々力警部が言葉をついで、 「これも作家仲間の話なんですが、別れた妻の泰子というのは、ごく平凡な家庭的な女なんですね。それに反して昌子というのは文学のわかる女で、立花としては泰子よりも昌子のほうが歯ごたえがあったわけです。それで小説の取材やなんかやらせているうちに、つい関係ができてしまったんですね」 「それで、別れた妻の泰子というのは……?」 「いやそれがいま行くえを捜索中なんです。別れたのはことしの五月で、五月の末日に籍も抜いてます。作家仲間の話では当座の暮らしには困らぬくらい、まあ、|慰藉料《いしゃりょう》を出したらしいというんですが、それ以後の消息はだれも知っていない。郷里の静岡へ帰っているんじゃないかって、作家仲間でもいってるんですが……」  と、等々力警部はそこで言葉をにごして顔をしかめた。 「ところで、死因は青酸カリだそうですね」 「はあ、もう青酸カリもいまとなっては、すっかり|稀《きし》|少《よう》価値がなくなってしまいましたね」 「しかし、警部さん」  と、金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめて、 「青酸カリで殺害したものを、なんだって硫酸で顔を焼いたり……局部を傷つけたりしたんでしょうねえ」 「それは、先生」  と、唐沢警部補も忌まわしそうに顔をしかめて、 「そこが女性特有の残忍な|復讐《ふくしゅう》本能じゃないでしょうかねえ」 「と、いうことは別れた妻の泰子の犯行だとおっしゃるんですか」 「いや、いや、いや!」  と、唐沢警部補は手をふって、 「まだそこまでは断言できかねますが、とにかく行くえをつきとめなきゃあねえ」 「ところで、昌子の妹の繁子というのは……?」 「はあ、いま静岡のほうへ照会中なんです。なにせ作家仲間というやつは、ごく表面的なつきあいしかなく、家庭的なつながりがないんで、こういうときに困るんですよ。静岡といったって相当広いですからねえ」 「ところがねえ、金田一先生」  と、等々力警部はまたいっそう眉をひそめて、 「立花というのがサジストだったらしいんですよ。昌子の死体にはなまなましい傷跡がいちめんにあるんです」 「なまなましい傷跡が……?」  金田一耕助は思わず眉をつりあげた。かれはこのひとたちより先に、昌子の死体を見ているのだが、ネグリジェを着ていたので、そこまでは気がつかなかったのである。 「ええ、そう、さすがに立花も世間をはばかって、着物や洋服を着たばあい、露出するような部分は遠慮したらしいんですが、背中や|臀《でん》|部《ぶ》や|太《ふと》|股《もも》や……ことに臀部がひどい。|鞭《むち》でぶんなぐった跡がいちめんなんです」 「鞭は見つかりましたか」 「ええ、昌子の部屋にありましたよ。競馬の騎手が使うようなやつです」 「臀部がいちばんひどかったりすると、昌子も承知の上でなぐらせていたということになるんですか」 「ひょっとすると、昌子自身がマゾヒストじゃなかったかといってるんです。まあ、そういう点でも立花は、泰子ではあきたらなかったんじゃないでしょうか」  金田一耕助は、|椅《い》|子《す》にめりこむような姿勢で、無言のまま深く深く考えこんだ。  五日の夜、金田一耕助のところへ電話をかけてきたのは、立花慎二の別れた妻、田辺泰子ではなかったか。しかし、それが田辺泰子であったにしろ、なかったにしろ、その後その女はどうしたのか。きのうもきょうもなんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もなく、それが金田一耕助をこの上もなく不安におとしいれているのである。  なにかしらこの事件には、まだ裏がありそうだった。     多門六平太  夕方の五時ごろ渋谷署を出た金田一耕助は、もよりの赤電話で緑ケ丘荘へ電話をかけてみたが、依然として正体不明の依頼人からは、なんの連絡もないらしい。 「はあ、ご婦人からの電話はありませんでしたが、そのかわり、金田一先生」  と、電話へ出た管理人の山崎さんの報告によると、 「|多《た》|門《もん》さんから電話がございましたよ」 「ああ、多門君から……? なんていってた?」 「今夜八時ごろ、有楽町のいつものところで会いたいって。先生からのご依頼の件が見つかったからっておっしゃってましたが……」 「ああ、そう、いや、それはありがとう」  多門|六《ろく》|平《へい》|太《た》というのは前科数犯の男なのだが、先年殺人事件にまきこまれて、あやうく犯人に仕立てられるところを、金田一耕助に救われたことのある男である。それ以来、金田一耕助にひどく傾倒してしまって、近ごろではかれの|股《こ》|肱《こう》をもって任じている。  元来が悪質な人間ではなく、一種のアドベンチュラーで、スリルを好む性癖がつい法の規律から逸脱させていたらしく、金田一耕助に心酔しはじめてから、適当にスリルを味わえる仕事を提供されるところから、近ごろでは法網にふれるようなこともやらなくなった。  ふだんはあるキャバレーの用心棒をやっているのだが、活動的な調査を必要とするとき、金田一耕助にとってはしごく便利な手先であった。  金田一耕助はいまジレンマにおちいっている。殺人の現場からかれは重要証拠品をもちだしている。かれは依頼人との約束を守って、まだ中身を点検していないのだけれど、その持ち主が現場にいたことはたしかである。しかも、その持ち主は現場からほど遠からぬ公衆電話から、金田一耕助に電話をかけてきたきりで、姿をくらましているのである。  それが果たして田辺泰子か……? あのハンドバッグの中身を調べてみれば、わかることかもしれないのだが、もうしばらく待ってみようと、かれは決心しているのである。  銀座へ出てひとりで夕食をすました金田一耕助が、|飄々《ひょうひょう》として八時ごろ、有楽町のガード下へやってくると、 「先生」  と、すぐその姿を見つけてそばへやってきたのは、三十前後の|筋《きん》|骨《こつ》のたくましい男である。適当に|陽《ひ》|焼《や》けした顔から白い歯が笑っている。これが前科数犯とは思われない若さだし、また健康的な若さでもある。 「このあいだはお電話をどうも……」 「ああ、いや」  と、金田一耕助はブスッとした顔色で、 「いやにまた早いじゃないか。ほんとにまちがいないだろうね」 「大丈夫です。そこはじゃの道はへびといいますからね。だいいち、名前と|風《ふう》|態《てい》がわかっていちゃね」 「ああ、そう。ありがとう」  こんど金田一耕助が依頼したのは、河野健太という男の居所を捜索することであったが、どうしてそんなに早くわかったのか、こんな場合、金田一耕助は詮索しないことにしている。それはひょっとするとこの男の、暗い過去にふれることになるかもしれないからである。 「で、なにをしている男なの?」 「バーテンです。ユリシーズというバーなんです」  ああ、なるほどと、金田一耕助はこのあいだ、|衣《い》|桁《こう》のかげからのぞき見た男の|風《ふう》|貌《ぼう》を思い出していた。そういえばそういう|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を身につけていた男であった。 「ところで、先生は大丈夫ですか」 「なにが……?」 「いえ、相手も先生を知ってるんじゃないんですか」 「いいや、相手はぼくを知っていない」  聚楽荘アパートの四階の廊下で会ったことは会っているが、そのときといまとではまるで服装がちがっている。しかも、相手は自分が八号室への訪問者であったことに気がついていないのだから、面とむかっても覚えられないだけの自信を金田一耕助は持っていた。  西銀座の狭い横町の奥にユリシーズと、赤地に緑で染めぬいた街燈が軒から出ているうちがそれだった。なかへ入るともう客が四、五人、カウンターのまえの止まり木に腰をおろしていて、なかなかはやる店らしかった。  多門六平太はカウンターを避けて、金田一耕助を奥のボックスへ案内すると、 「先生はなにを……?」 「ぼくはビールでいい。きみは好きなものを注文したまえ」 「じゃ、ぼくもビールにしましょう。ビールにおつまみもの」  きれいな女が四、五人いて、金田一耕助と多門六平太が入ってきてからも、四、五人づれの客がなだれこんできた。 「おい、いないじゃないか」 「そんなはずはないんだが……」  と、六平太がきょろきょろと長いカウンターの奥を見まわしているのを、ビールを運んできた女が勘ちがいして、 「あら、どなたかお目当て……?」 「ああ、いや……」  と、六平太がなにかいおうとする機先を制して、金田一耕助はコップにビールをうけながら、 「なにさ、ここにマサ子というすばらしい美人がいるってことを聞いてたもんだからさ」  それは金田一耕助のほんのとっさのでたらめだった。河野がマサちゃん、いるかいといいながら聚楽荘アパートの四階八号室へ入ってきたのを思い出していたからなのだが、女はそれを聞くと眼を見張って、 「あら、いやだ、あなたこないだ殺された昌子さんを探しにいらしたの?」 「え?」  と、金田一耕助は眼を見張って、 「こないだ殺されたってどういうことさ」 「ほら、ほら、いま新聞で騒いでるじゃないの。硫酸殺人事件さ。あの被害者の梅本昌子ってひと、ほんのちょとだけだけど、ここにいたことがあるのよ。もっともここではタマミって名乗ってたんだけど」  女はまるでいま世間を騒がせている事件の被害者を、親しく知っていたことを、誇るかのような|口《くち》|吻《ぶ》りである。 「へへえ」  と、眼を見張った金田一耕助は、真実の驚きを表現しているのである。 「それは驚いた。ぼくのいったマサ子というのはそれじゃないんだが……それにしてもその女、いつごろここにいたんだね」 「去年の春ころ三月ばかりね。でも、いやあねえ」 「いやというのは……?」 「いえさ。昌子さん、すぐ立花先生にひっこぬかれちゃったんだけど、ここのバーテンの健ちゃんてえのが、その後も昌子さんとつきあってたらしいの。それでさっき参考人とかで、警察へつれてかれたわ」  金田一耕助は多門六平太のほうへ見向きもせず、 「へへえ、するとこの店、当分客が立てこむよ。物見高いのは都のつねとかいってね」 「でも、そんなお客さん、まっぴらよ。この店、これでも相当客種がいいのよ」  金田一耕助にとってははなはだ耳の痛い言葉だったが、女はべつに皮肉をいったわけではなく、金田一耕助の提案にたいして、まんざらでもない顔色であった。     深夜の作業人夫  河野健太はべつに重要参考人というわけではなく、ただたんに立花慎二と梅本昌子、それから別れた妻、田辺泰子との関係について、聞かれたにとどまるだけらしかった。  河野は田辺泰子についてあまり知るところはなく、したがって捜査当局もこの|訊《き》き|取《と》りからは、あまり重大な進展はなかったらしい。  立花慎二と別れたのちの田辺泰子の消息はわかった。彼女は静岡へ帰ったわけではなく、浅草のほうにあるヤマト派出婦会に属して、派出婦をやっていた。住居も下谷のアパートとわかったが、八月五日の夕方以来彼女は消息を絶っているのである。当然、田辺泰子なる女の存在に、鋭い疑惑の眼がむけられたのはむりもない。  梅本昌子の妹の繁子が静岡から上京して、渋谷の捜査本部へ出頭したのは、八月九日のことである。  ちょうどそのとき金田一耕助も捜査本部にいあわせたのだが、写真で見る姉の昌子がいかにも才気|煥《かん》|発《ぱつ》らしい美人だったのに反して、妹の繁子はいくらか愚直といった感じである。髪も赤茶けてちぢれているし、度の強そうな眼鏡の下で、出目金のような眼がとびだしている。それにもうそろそろ三十という年ごろだのに顔いちめんの吹き出物で、当人もそれが気になるのか、顔をあげかねる模様であった。 「はい、あの……」  と、繁子は唐沢警部補の質問にたいして、一句一句おどおどしながら、答える言葉もほとんど口のうちで消えてしまう。 「立花の兄さんにはもうひとりも身寄りはございません。お父さんもお母さんも、戦争中に亡くなってしまったんです。いえ、あの、兄さんのお母さんはもっと早く亡くなって……」 「そうすると、立花氏に遺産があるとすると、それは全部きみのものになるわけだね」 「イサン……? イサンとは……?」  と、繁子の言葉にはなんの感動も認められなかった。唐沢警部補はちょっとあきれたように、 「遺産とは|遺《のこ》された財産のことさ。立花氏の財産は全部きみのものになるわけだな」 「まあ!」  と、繁子は度の強い眼鏡の奥から、出目金のような眼をシワシワさせて、唐沢警部補を見ていたが、すぐまた顔を伏せると、 「そんなこと! そんなこと……だって、立花の兄さんとわたしとはなんの関係もありません」 「いや、しかし」  と、唐沢警部補は相手にいって聞かせるように、 「きみの姉さんは立花氏の奥さんだったんだ。だから立花氏が死ねばその遺産、つまり財産だね、それは全部姉さんのものになるはずだったんだ。ところが、その姉さんも死んでしまったんだから、財産は全部きみのものになるというわけだ」 「まあ、そんなこと……」 「そんなことといっても法律ではそう決まっているんだ。きみ、だれか身寄りのひとは……?」 「だれもありません」 「だれもない? ほんとにひとりもないの?」 「はい、あの、亡くなった梅本のお父さんにいとこになるおばさんがあるんですけれど……」 「ふむ、ふむ、で、そのおばさん、どうしてるの」 「そのおばさんも、お母さんがわたしらを連れ子にして、立花のお父さんのお嫁になったとき、|喧《けん》|嘩《か》別れをしてしまって……いまでは他人もおんなじなんです」 「ふむ、しかし、まあ、こういう際だから、そのおばさんにでも力になってもらうんだね。ところで、きみ、東京の宿は……?」 「はい、まえに一度姉さんを頼って東京へ来たことがございます。姉さん、おまえみたいな|阿《あ》|呆《ほう》、世話するにもしがいがないといって、半月ほどで追い帰されたんですけれど、そのとき、五反田の|若《わか》|竹《たけ》館というアパートに姉さんといっしょにいたんです。そこへ行ってみようかと思っております」 「ああ、そう、それじゃ当分そこにいてくれたまえ。また、なにか用事があるかもしれんから」 「あら、だって、わたしそんお金は……」 「あっはっは、なにいってるんだ。きみは立花氏の遺産相続人じゃないか。アパート代ぐらいには困りゃしないよ」  じっさい、立花慎二の本はいまでもよく売れているから、印税だけでも相当になるはずだった。  梅本繁子が捜査本部に出頭した晩、緑ケ丘荘の金田一耕助のところへ、多門六平太から電話があった。 「先生、田辺泰子のアパートと、泰子の所属していたヤマト派出婦会を調べてきました」 「ああ、そう、ご苦労さん、それで結果は……?」 「やっぱり先生のおっしゃったとおりです。泰子は赤と黒とのハンドバッグをもってたそうです。|蟇《がま》|口《ぐち》みたいな口金のついたやつで、バンドで提げるようになってたといってます」 「ああ、そう、ありがとう」  そのハンドバッグなら、いま、金田一耕助の手元にあるのだ。  だが、金田一耕助は田辺泰子の許可がないかぎり、それを開けられぬことなっている。 「ところで、河野健太のほうはどうだね」 「あっちのほうはまだこれといった動きはありません」 「ああ、そう、でも、念のためなおいっそうの警戒を頼むよ。あの男がなにか事件の|鍵《かぎ》を握っていると思うんだ」 「はあ、承知しました。厳重に監視してますから、ちょっとでも変わった動きがあったら、すぐ報告することにいたします」 「よし、頼む」  金田一耕助にとっていまのところ頼みの綱は、河野健太ひとりだけだった。かれは現場からコンパクトを持ち帰っている。  コンパクトを手にしたときの河野健太の邪悪な笑顔が、いまでもハッキリと金田一耕助の|網《もう》|膜《まく》にやきつけられているのである。  河野健太はコンパクトのぬしを知っているのだ。そして、ひょっとするとかれはそれを|脅《たか》りの種としようとしているのではあるまいか。とすれば、かれは田辺泰子の|居所《いどころ》を知っているのかもしれなかった。  この恐ろしい硫酸殺人事件が、突如としてさらにいっそう恐ろしい終局を迎えたのは、事件が起こってから十日目のこと、すなわち八月十五日の深夜のことであった。  しかも、この事件を解決にみちびいた功労者は、金田一耕助でもなければ等々力警部でもなく、じつに前科数犯の多門六平太だったのである。  そこは渋谷の聚楽荘アパートからあまり遠くないH町である。さらにもっと厳密にいえば、金田一耕助が聚楽荘アパートの鍵を手に入れた、あの公衆電話のボックスから歩いて三分ほどの距離である。  そこに戦後十年以上たっても、いまだに|瓦《が》|礫《れき》の|堆《たい》|積《せき》のまま、おっぽり出された数百坪の|廃《はい》|墟《きょ》のあることを見逃していたということは、なんといっても金田一耕助にとって大きなミステークだったろう。  この廃墟の一角に焼け残った黒松がからかさのように大きく枝をひろげており、その根元いったいは|股《もも》をも没する雑草が、いちめんに|生《お》いしげっている。  八月十五日の夜一時過ぎ。  この黒松の根元から数メートルほどはなれた雑草のなかで、黙々と動いている黒い影があった。いや、当人は黙々と動きたいのであろうが、仕事の性質上、相当大きな音を発するのはやむをえなかった。  その物音というのは|砂《さ》|礫《れき》をすくい、それをどこかへ流しこむような音である。シャベルで土をすくっては、それを深い穴のなかへ落としこんでいるらしい。  砂礫をすくう音につづいて、はるか地の底でザーッと重いものが流れこむ音がする。  この不思議な深夜の作業人夫は、さっきからこの奇怪な作業をつづけてやまない。むろん、ときおりシャベルの手をやすめては、あたりの様子をうかがうことは忘れなかった。  しかも、この不思議な作業人夫には、どうやらひとり相棒があるらしい。その相棒はこの廃墟の入り口の|草《くさ》|叢《むら》のなかにひそんでいて、往来のほうにひとが近づくと、小石を投げて作業人夫の注意をうながすのである。  バッサリと草叢に落ちる小石の音を耳にすると、作業人夫は手をやすめて、シャベルとともに草のなかに体を伏せた。  だが、……  さしも厳重な見張りの眼をかすめて、|蛇《へび》のように音もなく、スルスルと作業人夫に近づいてきたひとつの影がある。  第二の影はものもいわずに、いきなりシャベルをもった作業人夫にとびついた。 「あっ!」  作業人夫は口のうちで低い叫び声をあげたが、うしろから|羽《は》|交《が》いじめにされているので動きがとれない。作業人夫はシャベルを捨てて、ポケットに手をやろうとした。  そのポケットにはピストルをひそませているのである。  だが、第二の影はそうはさせなかった。作業人夫の手をとって、それを|逆《さか》|手《て》にねじあげようとする。  作業人夫は足で|蹴《け》った。相手の腕から逃れようとして、むちゃくちゃにあばれまわった。  しかも、ふたりとも無言なのである。無言のままで必死の格闘が、腰をも没する草のなかでつづけられた。  見張りに立った人物もむろんそれに気がついていた。見張り人は作業人夫を助けようか、それともこのまま逃げだそうかと、ちょっとためらっているふうだったが、どうやら第一のほうに心を決めたらしい。  ポケットから切り出しナイフを取りだすと、草のなかを突進していったが、どうやらそれは手おくれだったらしい。 「わあっ!」  という、ものすさまじい叫びをあげて、男のひとりが、深い穴のなかへ転落していった。  しかも、それが自分の仲間だとわかったとき、見張り人は身をひるがえして廃墟をとびだして、人眼につかぬところにかくしてあった自動車にとびのって、いずくともなく逃げだしてしまったのである。  それから二十分ののち、多門六平太の電話でたたき起こされた金田一耕助は、H町の廃墟へかけつけた。 「ああ、先生」  と、六平太は相当興奮していて、 「河野健太がこの井戸の底でもがいています。井戸の底にはもうひとつ死体があるらしく、河野はしきりに気味悪がって、早く助けてくれといっているんです」 「仲間がひとりいるといっていたが……」 「自動車で逃げてしまいました。しかし、女のようでしたよ」 「よし、とにかく等々力警部を呼ぼう」  深夜の二時。  硫酸殺人事件の捜査陣はものものしく、この廃墟のなかに集まった。  そして、河野健太につづいて、|空《から》井戸の底からひきあげられたのは、鼻持ちのならぬほど、ひどい臭気を発している、裸の女の死体であった。 「いったい、これはだれ……?」  懐中電灯の光で女の顔を調べながら、等々力警部は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる顔色である。 「警部さん、この女の体をごらんなさい。体じゅう無数に古い|疵《きず》|跡《あと》があります。これは立花慎二の別れた妻、田辺泰子にちがいありませんぜ」  そのとき、河野健太の身体検査をしていた刑事が、 「ああ、警部さん、この野郎、男のくせにコンパクトをもってますぜ」 「えっ、コンパクト……?」  ひったくるようにそのコンパクトを手にとった金田一耕助は、そこに彫ってあるS・Uというイニシャルを見たとたん、雷にうたれたような驚きに打たれた。  これが田辺泰子のコンパクトなら、Y・Tであらねばならぬ。また、梅本昌子のものならば、M・U、あるいは立花慎二の妻になっていたのだから、M・Tであるはずだ。 「警部さん、わかりました。梅本繁子を手配してください」 「なに? そ、それじゃ繁子が犯人なのか」 「いえ、もし、繁子を捕らえてその体を調べた結果、体に無数の|生《なま》|疵《きず》があったら、それは繁子ではなく、姉の梅本昌子です。そして、われわれがいままで梅本昌子だとばかり思っていたのが妹の繁子です。これで硫酸を使った理由もうなずけます。昌子はそれこそ|蛭《ひる》のような女……あいつは|雌《め》|蛭《ひる》なのです」  三日ののち、梅本昌子は捕らえられた。  彼女はマゾヒストでもなんでもなかった。彼女のやったことからして、むしろサジストだったのではないかといわれている。  昌子は立花の正妻になると同時に、夫の迫害から逃れ、しかもその遺産を自分のものにしようとした。そこで妹を身代わりに立て、ふたりとも殺して、おのれが繁子になって遺産を相続しようとしたのだ。  泰子のハンドバッグを開くことによって、なぜ彼女があの晩あそこへやってきたのか、その理由も判明した。  泰子は別れた夫の手紙で呼びよせられたのである。立花は泰子をあのアパートへ呼んで、いったいどうしようとしていたのか、その理由はわからない。ひょっとすると、立花は昌子のもっている蛭のような性格に気がつき、昌子と別れて泰子と復縁しようとしていたのではないかといわれている。  あの恐ろしい現場を見て逃げだした泰子は、金田一耕助に電話をかけたあとで、昌子に殺されたのだ。コンパクトを拾った河野は、それが繁子のものであることを知り、死体を調べてそこに殺されているのが昌子でないことに気がついた。それは肉体的関係があるもののみが知っている特徴が、あの死体にはなかったからだ。 「泰子さんの死体を埋めてしまったら、こんどは河野をやっつけるつもりだったのに、ほんとに惜しいことをしてしまった」  と、捕らえられた梅本昌子は平然としてうそぶいていたという。  ちなみに彼女はある種のドーランを使用すると、必ず皮膚がかぶれて顔いちめんにニキビのような吹き出物が出ることを、経験によって知っていたのだが、そのドーランの名はとくに伏せておくことにしよう。  営業妨害になることを恐れるからである。    日時計の中の女      一 「豪勢な家ねえ。これでまだ建て増しをするというの?」 「だって、古い家を買うとどうしても勝手の悪いところがあるわね。あたしはこれでいいというんだけど|田《た》|代《しろ》がきかないの。あたしの居間を建ててくれるというの」 「うっふっふ、それ、おノロケ?」 「いやよ、そんなふうにとっちゃ。でも、このうち、ふつうの人が住むには使い勝手が悪いわ。アトリエばっかり豪勢にできてるけど」 「そりゃ、もともとエカキさんが建てたうちなんでしょ。あとでそのアトリエを見せてもらうけど、|裕《ゆう》|三《ぞう》さんどうするつもりかしら、そのアトリエを」 「ところがあれが気に入ってしまったらしいのよ。あの|隅《すみ》にホーム・バーでも作ろうといってるわ。大して飲めもしないくせに」 「うっふっふ」 「いままで狭っ苦しいアパート暮らしがつづいたでしょ。だからひろびろとした部屋のあるのが気に入ったのね」 「苦節十年ってとこね」 「あら、それ、なんのこと?」 「いいえ、あなたもよく辛抱したわねえってことよ。結婚してソロソロ十年でしょ」 「ことしでちょうど十年選手。プロ野球の選手ならたんまりボーナスをいただくところよ」  |啓《けい》|子《こ》はそこで不意にけたたましい声を立てて笑った。なんとなくそらぞらしい、とってつけたような笑いかただった。|可《か》|南《な》|子《こ》は不意をつかれたように振りかえると、まぶしそうな目で啓子を見た。しかし、すぐその視線をそらすと、なんとなく、応接室の外へ目をやった。  長く空き家になっていた家だけあって、庭は相当荒れている。敷地は三百坪あるそうだが、座敷のまえの|芝《しば》|生《ふ》も、芝生のむこうの植え込みもかなり荒れていて、これからの手入れがたいへんだと思わせた。  建て増しをするせいか、植木屋のほかに|鳶《とび》のものが四、五人入っていて、座敷の正面の芝生のむこうでなにかやっている。 「あの人たちなにをしてるの。まさかあんなところへ増築するんじゃないでしょう」 「あれ? あそこに|日《ひ》|時《ど》|計《けい》があるのよ。建て増しするとなると日時計の位置が少しおかしいから、右のほうへ移動しようというの。|凝《こ》り出すときりのないひとだから」 「たいへんねえ」  可南子が|溜《ため》|息《いき》まじりにいうのを聞きとがめて、 「それ、どういう意味?」  と、啓子の声は鋭かった。 「いいえ」  と、可南子はおだやかに微笑して、 「家のまわりが落ち着いてから引っ越してきても遅かあなかったんじゃないかと思ったのよ。これじゃ、あなたがたいへんだわ。裕三さんは旅行で逃げてればいいのかもしれないけれど」 「旅行は仕事のせいで仕方がないけど、ほんとはあなたのいうとおりよ。それに、ここ少し寂しすぎると思わない。ご近所ってほとんどないし、これじゃまるで野中の一軒家もおんなじだわ。夜なんか、まだ気心もよくわからない|婆《ばあ》やとふたりっきりでしょ。心細くって」  啓子はちょっぴり|本《ほん》|音《ね》を吐いた。 「婆やさんだけじゃ手が足りないんじゃない? もっとしっかりしたお手伝いさんでもおかなきゃ」 「ああ、そうそう。あなた|晶《あき》|子《こ》知ってたわね。あたしのいちばん下の妹……」 「ええ、晶子さんがどうかして?」 「あの|娘《こ》、この春富山の高校を出て、いま役場へ勤めてるの」 「あら、もうそんなになって?」 「だってあたしがもう三十三ですもの」  三十三にしては、近ごろめっきりやつれの見える啓子の顔から視線をそらして、 「それで……?」 「あの娘、あたしとちがって頭がいいから上の学校へ行きたかったのよ。田代も引き取ってやったらっていってくれたんだけど、アパート暮らしじゃどうにもならないわね。それでそのままになってるんだけど、こんどこの家を買ったについて、引き取ってお手伝いさせかたがた、学校へやったらどうかっていってくれるの」 「それ、いいじゃない」  可南子もこの話には乗り気らしく、 「晶子さんとはいつ会ったかしら。小さいときからよくできるひとだったわねえ。それにとってもきれいだったじゃない?」 「どうせ|田舎《い な か》っぺよ。もし出てきたら仕込んでやってちょうだい。そんな娘引き取ったところで、とても間に合やあしないと思うんだけど」 「すぐ慣れるわよ。晶子さんいつ来るの」 「今月いっぱいで役場のほう、お暇をちょうだいして、来月の五日ごろまでに来るっていってきたわ」 「あら、まあ、じゃすぐじゃないの。それまでには裕三さんも帰ってくるでしょ」 「そんなに長く旅行されちゃ……」  啓子は探るように可南子の顔を見て、なにか聞きたそうだったが、すぐ気をかえて、 「だから寂しいのは、すぐ解消すると思うんだけど、ここ少し不便過ぎると思わない? 駅までタップリ二十分よ。買い物やなんかに困ると思うの」 「だってご用聞きがまわってくるんでしょ。それに電話もあるし、晶子さんだって自転車くらい乗れるでしょう」 「でもねえ」  啓子は、もったいらしく|顎《あご》を胸にうずめて、 「そうとばかりもいかないわね。やっぱりあたしが自分で出向いていかなきゃならない場合だってあると思うの」 「なら、自動車買ってもらいなさいよ。そうそう、十年選手のボーナスがわりに。あなた運転免許もってるでしょ」  いってから可南子は思わずほほえんだ。相手の思うつぼにはまったことに気がついたからである。 「それなのよう」  啓子はいくらか|膝《ひざ》を乗り出して、 「田代もそういってくれるの。中古だと、かなり格安に手に入るというのよ。こうなるとなにが役に立つかわからないわね」  啓子がまたケタケタとケタはずれの声を立てて笑ったので、可南子は|怪《け》|訝《げん》そうな目で相手を見た。しかし、すぐまぶしそうな目を窓外へそらした。|紫陽花《あじさい》の花が毒々しいほどの色を見せて咲きこぼれている。  啓子が自動車の運転を習ったのはぜいたくからではない。  裕三の苦闘時代、啓子は生活費をかせぐために、ちょっと大きな食料品店へ通いで勤めていたことがある。人使いの荒い店で、男手が足りないときには配達までさせられた。啓子は休みの日を利用して運転の|稽《けい》|古《こ》をして免許証をとった。裕三が作家として売り出すまでの数年間は、ほとんど啓子が働いて生活費をかせぎ出していた。 「裕三さん、いま仕事いくつ?」 「週刊誌が三つに新聞がふたつ。近くまた週刊誌がひとつはじまるらしいの。新聞だって書く気になればいくらでも注文あるわ」 「たいへんねえ。こないだ本になったあれ、ここんところ連続ベスト・セラーじゃない?」 「そのかわり気むずかしくて困るわ。まるでハレモノにさわるみたい」 「そうねえ。でも、それは仕方のないことよ。作家ってみんなそんなもんらしいわ。まあ、あなただからやっていけるのよ」 「あら、それ、どういう意味?」  啓子の声にはなにか|反《はん》|撥《ぱつ》するトゲのようなものがあった。可南子はそれを知っていながらおだやかにほほえんで、 「それよりアトリエを見させていただこうかしら。裕三さんのお気に入りだという……」 「ええ、いいわ。じゃ、どうぞ」  啓子ははぐらかされたいまいましさに、さっと|瞼《まぶた》のふちを紅潮させたが、すぐ|椅《い》|子《す》を立って応接室のドアへ行った。なんとなく挙動があらあらしかった。  立派な応接室だったし、椅子テーブルも|極上《ごくじょう》のものをえらんであったが、まだ引っ越してきてまもないせいか、なんとなく調和をかいてぎこちなかった。しかし、可南子がそう批判がましい目つきをみせると、また啓子が気にするので、彼女はできるだけジロジロあたりを見たりしないことにしていた。しかし、お世辞にもいい趣味ねえといいかねるのが可南子には心苦しかった。      二  応接室とアトリエをのぞいてはあとは万事しっとりとした日本風の建物で、本式の茶屋までついている家である。外の|塀《へい》なども相当いたんでいるとはいうものの京ふうの|築《つい》|地《じ》になっていて、いま新しく作るとどれくらいかかるだろうというような凝り方だった。  田代裕三は地所ぐるみこれを三千万円で買った。このへんはそろそろ坪十万円の値を呼んでいるから、よい買い物だったかもしれない。田代はまだその上に数百万円かけて手を入れるつもりらしい。これがつい四、五年まえまで女房にかせがせていた男なのかと思えば、可南子の溜息が出そうなのもむりはない。  アトリエは定式どおり十二坪、ガッチリとした木口でアトリエというよりホールである。長方形の長いほうの一方に中二階みたいなのがせり出していて、狭い階段がついている。中二階にも木製の|手《て》|摺《す》りがついていた。  可南子はあきれたようにアトリエのなかを見まわして、 「裕三さんはいったいこのアトリエをどうする気かしら」 「ビリヤード・ルームにしようといってるの。ここ基礎もしっかりしてるし、玉突きならひとりでもやれるというのよ」 「そうそう裕三さん、玉突きには自信があったのね。いいかもしれないわ。どうしても運動不足になりがちなひとだから。それでホーム・バーはどこへ作るの?」 「あの中二階の下」 「いったいあの中二階はなんなの」 「あがってみない」  啓子は先に立って中二階の階段をあがっていった。可南子もあとにつづいた。  中二階の半分は四畳半の部屋になっており、あとの半分は押し入れになっていた。四畳半のほうは板敷きのガランとした部屋で、まだなんの装飾も調度もなかった。 「この家を建てたエカキさんはここへベッドを備えつけて、人に会うのがいやになったらここへ閉じこもっていたんですって。いまに田代がその|真《ま》|似《ね》をしだすわよ」 「まさか」 「いいえ、ほんとなのよ」  と、啓子はムキになって、 「いまにおまえと|喧《けん》|嘩《か》したらアトリエのドアに錠をかって、自分はこの部屋で|仙《せん》|人《にん》みたいな暮らしができるなんて悦に入ってるの」 「冗談よ、そんなこと」 「さあ、どうだか」  啓子は|瞳《ひとみ》をとがらせながらも、急にひややかな調子になって、 「それはそうと、可南子さんは、この家を建てたエカキさんのことを聞いてるでしょう」 「いいえ、どういうひと、それ?」 「あら、田代はこの家を買うときあなたに相談に行ったんじゃなかったのかしら」 「いいえ、あたし相談なんか受けやしなかったわ。ただ|成城《せいじょう》のこれこれというところへ家を買った。そのうちに見にきてほしいって、事後報告を受けただけよ。だけど、なにかあったの、そのエカキさんてひと?」 「それがねえ、いやな話なの、可南子さんはほんとに聞いていなかったの?」  可南子の顔をのぞきこむようにする啓子の瞳には、まだ疑惑の色が深かった。 「いいえ、なんにも」 「そうお、じゃ、お話しするのはよそうかしら」 「そうねえ、どっちでもいいけど……」  と、冷淡にいってから可南子は急に後悔したように、 「いいえ、やっぱり伺っとくわ。あなたにもなにか気になることがあるならいっといたほうがいいんじゃない。少しは気が晴れるかもしれないわ」 「そうねえ」  こんどは啓子のほうが冷淡そうになったが、やっぱり聞いてもらいたいらしく、 「じゃ、お話ししとくわ。これ、いまむこうにいる婆やの|井《い》|出《で》さんに聞いた話なんだけど……井出さんてひとこの土地のひとだからよく知ってンのよ、この家のこと。この家を建てたのは、|神《じん》|保《ぼ》|晴《はる》|久《ひさ》さんてひとで、そのひと本職のエカキさんじゃなく、まあ、道楽半分みたいだったんですって。もちろんこの家を建てたのは戦前のことで、どっかこのへんの大地主の次男坊だったかなんからしいわ」 「ええ、それで……」 「学校は美校を出てたそうですけれど、べつに絵を売らなきゃ食べていけないってひとじゃなかったのね。まあ、一種のジレッタントとでもいうの、そんなだったらしいの。奥さんはあったが子供はなかった。そういう状態で戦後になったんだけど、すると|旦《だん》|那《な》さんが急に道楽をはじめたのね。いろんな女をこっそりこのアトリエへ引っ張りこんだんですって」  そこで啓子は二階の手摺りから体を乗り出すと、中二階の下の北側をゆびさして、 「ほら、あそこにドアがあるでしょ。あれ、このアトリエを建てたときにはなかったのを、戦後旦那さんが道楽をはじめてからこさえたんですって。外の|垣《かき》|根《ね》にも木戸を作って、表の門を通らなくとも、自由に女を引っ張りこめるようにしたのね。そうしておいて、奥さんの……|鶴《つる》|代《よ》さんといったわね、その鶴代さんてひとを|母《おも》|屋《や》へ閉じ込めておいては、アトリエのドアをしめきり、しょっちゅう女を引っ張りこんで、ここで悪ふざけしてたんですって」 「いやァねえ」  可南子はこういう話を語って聞かせる啓子の心をはかりかねるように|眉《まゆ》をひそめて、 「それで、鶴代さんて奥さんどうしたのかしら。おとなしくしていたの?」 「もちろん|憤《おこ》ってとび出したそうよ。そのひともこのへんの大地主さんの娘なのね。里へ帰ってしまったの。そしたら、そのあとへ乗りこんできたのが、|珠《たま》|子《こ》とかいう女なんですって。なんでもキャバレーかどっかで働いていたらしいって井出さんはいってたけど。それがたいへんなんですって」 「たいへんてどういう意味?」 「それがねえ」  と、啓子は鼻の上に|皺《しわ》をよせて妙な笑いかたをすると、変にすわった目で可南子の顔を見すえながら、 「神保ってエカキさん、どうやら変態らしかったのね、性的に」 「まあ」  可南子は薄く耳たぶを染めて啓子を見る。啓子は、いよいよ|執《しつ》|拗《よう》に可南子を見すえて、 「まえからそうだったのか。戦後急にそうなったのか、それで|先《せん》の奥さんの鶴代さんじゃ満足できなくなったのね。そこへもってきて珠子という女がどうやらその変態趣味を満足させたらしいの。だからあっちにりっぱな母屋があるのに、毎晩ふたりでこの狭っ苦しい四畳半へ閉じこもって、打つやら|蹴《け》るやら、毎晩のように|鞭《むち》をふるう音と女のヒーヒーいう悲鳴が聞こえて、そりゃなんともいえないほどいやらしかったんですって」 「つまり、神保ってエカキさんサジストだったというのね」 「そうらしいの」 「だけど、そんなことどうしてこちらの婆やさん知ってるのかしら。同じこの土地のひとにしろ、そんな|閨《けい》|房《ぼう》のことまで」 「それというのが、その時分この家にいた婆やさんと知り合いだったのね。そのひとから聞いたといっていたわ」 「それで、どうしたの、結局そのふたり」 「どうせ珠子って女、はじめから欲得ずくだったんでしょ。だから三|月《つき》ほどすると、家のなかの目ぼしいものをすっかり持ち出してドロンを決めこんだのね。そのあと神保さんてひと|血眼《ちまなこ》になって行くえを探したそうだけど、ひと月ほどして交通事故で亡くなったんですって。そこで万事OKってことになったのね」 「じゃ、その後この家だれがもってたの」 「もちろん鶴代さんて奥さんよ」 「ああ、そう、じゃ離婚はしてなかったのね」 「ええ、そう、それでご主人が亡くなってから一年ほど住んでたんだけど、その後また里へ帰ってしまって、このへんの土地の値上がりを待ってたって感じね。それへ田代がひっかかったのよ」 「でも……」  可南子はちょっと口ごもりながら、 「そんな話聞くと、なるほどあんまりいい気はしないけど、家としてはいいんじゃない? あなたも気に入ってるんでしょう」 「いまの話を聞くまではね」  そこでまた、啓子は可南子の顔をのぞきこむようにしていたが、急にケラケラ笑うと、 「でも、もう仕方がないわね。買ってしまったんですもの。そうそう、それについてあたしおもしろいものを発見したんだけど。これ、神保さんてその変態画家が描いたもんじゃないかと思うのよ」  啓子は手摺りをはなれると背後の押し入れを開いてなにやら取り出した。それは六号くらいの大きさのキャンバスだった。 「これ、どうしたの?」 「この押し入れのなかに古新聞にくるんで突っ込んであったのよ。これ、きっと珠子という女がモデルなのね。だから鶴代さんて奥さん、このままここへおいてったんだと思うのよ」  それは裸体の女が|膝《ひざ》を抱いてうずくまっているところだった。体全体は左をむいているが、顔は膝を抱いた両腕のなかにうまっているのでわからない。体はよく均整がとれて肉づきも豊かであった。濃いセピア色の背景のまえに浮きあがっているその裸身は、晩年のルノアールが好んで使ったバーミリオンである。一見なんの変哲もないような小品なのだが、それでいて奇妙に印象的なのは、おどろに振り乱した髪の曲線のせいか、それとも左の二の腕にはめている黄金らしい|腕《うで》|環《わ》のせいか。腕環は|蛇《へび》が|尻尾《し っ ぽ》をくわえているところらしいが、もしそうだとするとずいぶん悪趣味というべきである。 「ねえ、可南子さん」  啓子は妙にギタギタする|瞳《ひとみ》をかがやかせて、 「あたし思うんだけど、これやっぱり珠子という女がモデルよ。こういうふうに床にうずくまってるところを神保という変態画家が|鞭《むち》でぶって、自分で満足してたんじゃない」 「啓子ちゃん、そんな話もうよしましょう」 「そうよ、そうよ、そして神保ってひと珠子に逃げられてからのちも、せめてこの絵で満足してたんじゃない。この絵にはなんとなくそういういやらしいところがあるわ」 「啓子ちゃん」  可南子は|諭《さと》すような目で啓子を見すえると、 「あなたどうかしてやしない。引っ越しやなんかできっと神経がつかれてンのね。裕三さんが帰ってきたらいっといてあげるわ。啓子ちゃんに少し休養させてあげなさいって」  可南子は相手の手から油絵を取りあげると、押し入れのなかへほうりこんで、ピシャッと音を立てて板戸をしめた。      三  いま売り出しの人気作家田代裕三と|松《まつ》|並《なみ》可南子はいとこ同士である。おないどしだった。  戦後同時に富山の高校を出て、ほとんど同時に東京へ出てきた。田代は文学が志望で私立大学へ入ったが一年とつづかなかった。学資の水の手が切れたのである。  可南子はさる大きな洋裁店へ見習いで入ったが、センスがあったのかメキメキ腕をあげた。フランスのモード雑誌などもかなり自由に読みこなせるようになっており、近ごろ松並可南子といえば服飾界の一部では、ちょっと知られた新進のデザイナーである。  |堀《ほり》啓子は中学から高校へかけて可南子の二年後輩で、富山にいるころからの可南子にかわいがられていた。高校を出ると啓子は可南子をしたって東京へ出てきた。器量がよいのでさる化粧品会社の宣伝部へ採用された。デパートなどへ出張する一種のマネキンである。可南子と|同《どう》|棲《せい》しているところへよく遊びにきていた裕三と恋に落ちて結婚した。当時裕三はさる商業デザイナーの事務所で働いていた。  苦しい生活が数年つづいたが、可南子はふたりの結婚を喜んでいた。裕三は天才的なところがあるかわりに、ムラ気で喜怒哀楽の落差の大きな男であった。妙に楽観的なところがあるかと思えば、つまらないことでしょげ切ってしまうようなところがあった。いやに威勢がいいと思っていると、つぎの日は絶望で頭をかきむしっているような男である。  啓子はこれといった特異な才能には恵まれていなかったが、ムラ気の少ない女である。よくいえば神経が太いのだが、裕三にいわせるとおよそ作家の妻としてのセンスに欠けた、カンの鈍い女ということになっている。可南子はそれでいいのだとこの夫婦を見守ってきた。それにだいいち啓子はきれいではないか。  突然裕三が売り出した。  昭和三十三年、かれが発表した長編小説は売れに売れて、発行部数三十万を突破した。と、同時にかれは新聞、雑誌、週刊誌からひっぱりだこの人気作家になりすました。かれの書くものは本になると最低十万は売れた。映画になるとかならずヒットした。相当の多作家で、処女作以来すでに二十編の長編を発表しているが、多作のわりには|駄《だ》|作《さく》が少なかった。  ハイヤーを呼ぼうというのを断わって、成城駅のまえから渋谷ゆきのバスに乗った可南子は、|肚《はら》の底になにやら黒いシコリのようなものができているのを感じて不愉快だった。  せっかくいとこの羽振りのいいところを見せてもらって喜ぼうと思っていたのに、結果はすっかりウラハラになってしまった。いちいち突っかかってくるような啓子の口のききかたも可南子には腹立たしかった。むろんその原因も可南子にはわかっている。しかも、その責任が自分と裕三のふたりにあることも、可南子は心苦しく反省させられるのだが……  それにしてもさっき啓子の話したあの家のまえの持ち主のことは気になった。裕三はそれを知っていてあの家を買ったのだろうか。まさか……と、可南子はすぐ否定する。自分では血なまぐさい推理小説を書きながら、裕三はいたって|臆病《おくびょう》な男であった。それにかつぎ屋でもあった。そんな縁起でもない家と知りながら|大《たい》|枚《まい》の金を投げ出すはずがない。  それにもかかわらず啓子はまるでそれを知っていて、裕三が買ったように曲解しているようだ。いやそれのみならず自分までがそれに一役かっているように、啓子は誤解しているのではないか。問題はその点にある。 〈とにかくあのひとは裕三さんのこの目ざましい出世のスピードについていけないのだ。このままではいけない。いまのうちになんとか大手術をしなければ……〉  バスのなかで可南子の表情が思わずいかつくなっているのを、可南子自身は気がつかなかった。  あと三日で七月である。ことしは梅雨が長いだろうという予報だが、きょうは珍しく晴れていた。晴れているとはいうものの湿度は相当のもので、不快指数八十何度というところだろう。ましてや満員のバスのなかはムンムンするようなひといきれである。  その不快さに|煽《あお》られたのか、可南子の|肚《はら》の底の黒いシコリは、|烏《い》|賊《か》の墨汁のように毒々しく腹のなかにひろがって、彼女の表情をいよいよけわしいものにしていた。  |上《かみ》|通《どお》りの交差点のところでバスをおりると、可南子は道を左へ折れた。彼女は|松濤《しょうとう》の|高《たか》|砂《さご》館という中位のアパートで独身生活を持っている。去年|道《どう》|玄《げん》坂の裏通りにミモザという小ぢんまりとした服飾店を出して成功しているが、その資本が裕三から出ていると啓子は知っているだろうか。  高砂館の玄関を入っていくと受付の小窓から管理人のおばさんがのぞいた。 「あら、松並さん、お帰りなさい。お客さまですよ。お通ししておきました」  それだけいうとおばさんの顔はひっこんだ。可南子はそこに立ちすくんだまま、顔から血の気のひいていくのをおぼえた。  おばさんが彼女に無断でドアを開いて通す客といえばひとりしかない。  果たして自分のフラットへ入っていくと、ふた間つづきの奥の寝室のドアも窓も開けっぴろげて、裕三が可南子のベッドに寝そべっていた。たくましい上半身は裸になって、|枕下《まくらもと》の小卓の上で扇風器がブンブンまわっている。 「いけないわ、裕ちゃん」  可南子は寝室のドアのまえに立って、とがめるような声になっていた。 「なにがさ」  裕三はベッドに寝そべったまま頭だけこちらへむけている。元来色が白いほうなのだが、さすがに一週間にわたる旅行で|陽《ひ》|焼《や》けしている。陽焼けしていっそうたくましくなった感じである。 「ひとの留守中にベッドのなかへもぐりこんだりして……これからはあたしの留守中むやみに部屋へ入らないでちょうだい。管理人のおばさんにもよくいっとくわ」 「おいおい、なぜ急にそんな|邪《じゃ》|険《けん》なことをいいだしたんだい。おれ、たったいま旅行から帰ってきたばかりなんだぜ」 「それはわかってるわ」  可南子は隣の洗面所へ入って顔を洗いはじめた。 「東京駅からまっすぐにここへ駆けつけてきたんだ。疲れてるからちょっときみのベッドを借りたまでじゃないか」 「なら、なぜまっすぐに成城へお帰りにならないの。啓子ちゃんが待ってるのに」 「うん、だからこれから帰るさ。だけどそのまえにちょっときみに会っておきたかったのさ。おい、また相談に乗ってくれよ」 「いいかげんになさいよ。あたしもう知りませんよ」 「おい、なにをいってるんだ」  裕三はベッドから起きてくると、三面鏡のまえにすわっている可南子のうしろに立った。 「おれ、今夜、徹夜で仕事をしなきゃならないんだぜ。少なくとも六十枚は書かなきゃならないんだ。そうそう、おれ、金沢へ行ってきた」 「あら、金沢へいらしたの」 「ああ、『週刊X』に書いてるやつ、あれに金沢を使ってやろうと思ってね。金沢ならきみもよく知ってるだろう」 「あなた、金沢へいらしたのなら富山のほうは……?」 「いや、富山のほうへは行く暇がなかった。だけど晶子にゃ会ってきた」 「あら、晶子さんに会っていらしたの」 「うん、速達を出したら晶子のほうからやって来たのさ。そうそう、きみにゃまだいってなかったけど、あの娘をこんど引き取ることになってね。まあ、お手伝いさんがわりだよ」 「まあ、それはよかったわね」  鏡のなかに映っている裕三を見返す可南子の目に、急に優しさがよみがえってきた。 「晶子さん、喜んだでしょう」 「うん、まあね。小説の材料にするんだといったら、あちこち案内してくれたぜ。そうそう、それについて相談に乗ってもらわなきゃならないんだが……」  と、裕三がテーブルの上に投げ出してある|鞄《かばん》を取りあげたとき、電話のベルが鳴り出した。裕三が受話器を取りあげて、 「ええ? うちの女房から……?」  と、口走るのを聞いて、可南子が素早く受話器を横から奪った。 「いいわ、おばさん、つないでちょうだい」  電話のむこうからキンキンと啓子の声が聞こえてきた。啓子はよほど興奮しているらしく、なにをいってるのか全然|支《し》|離《り》|滅《めつ》|裂《れつ》だった。 「どうしたのよう、啓子ちゃん、もっと落ち着いて、珠子……? 珠子ってだれのこと? ああ、さっきあなたの話してらした……ええ? その珠子というひとが死体になって……? 啓子ちゃん、あなた、なにをそんなバカな……? ええそう、じゃ、おばさんにかわってちょうだい」  送話器の口をおさえて裕三のほうをふりかえった可南子は、|狐《きつね》につままれたような顔色である。 「お宅のお庭の|隅《すみ》っこから女の死体が出てきたんですって」 「女の死体が……?」 「ええ、啓子ちゃんじゃよくわからないから、いまおばさんに出ていただくところ……ああ井出さん、さっきは失礼。ええ? そういえば|鳶《とび》のひとが働いてたわね。ええ、ええ、まあ、それじゃいま啓子ちゃんがいってたのはほんとうなのね。いいわ、じゃ、いますぐに行きますから、啓子ちゃんにそういっといてちょうだい」      四  その日時計の文字盤は直径一メートルを越えていた。  文字盤を支える台は正五角形をしており、その表面にはそれぞれ裸体のレリーフがほどこしてあった。  女のポーズは大同小異で、いずれも両手で|膝《ひざ》を抱いているところであった。どの側面でもうずくまった女の左の二の腕には腕環らしいものをはめていた。その構図は啓子が押し入れのなかから発見したあの油絵と同じで、あるいはあの絵はこの浮き彫りの下絵だったかもしれない。  裕三はこの日時計が気に入っていた。しかし、増築の関係上、場所を少し移動する必要があった。いまの形をこわさないようにそっくりそのまま指定の場所へ移すようにと、厳重に鳶のものに申し渡してあった。  鳶のものはまず文字盤を台から取りはずすことに成功した。  五角形の台座はもと筒になっていたらしいのに、どういうわけか砂利だの小石だのがいっぱい詰められていて、その上にごていねいにもセメントが流しこんであった。  その詰め物を取り除かないことには、重くて台座を動かせそうになかった。  鳶のひとたちは|丹《たん》|念《ねん》にその詰め物を除去しはじめた。側面をこわさないようにしなければならないので、それはたいへん|厄《やっ》|介《かい》で骨の折れる仕事であった。素手でその詰め物を少しずつ取り除いていくうちに、突然若い鳶のものが、異様な悲鳴をあげてとびのいた。  若者の手にはひと握りの毛髪がからまっていた。|茶褐色《ちゃかっしょく》の表皮がついてまがまがしかった。  五人の鳶のものが五方から少しずつ詰め物を掘りかえしていって、そこにミイラ化した女の死体らしいものが埋められているらしいと、断定をくだすまでにはそう暇はかからなかった。  裕三が可南子といっしょに成城のうちへ帰ってきたとき、啓子は医者から鎮静剤の注射をうってもらって横になっていた。裕三が可南子といっしょだと知ったとき、啓子の目が一瞬恐怖におびえたようにふるえた。 「さっき東京駅へ着いたばかりだよ。途中松濤へ寄ったら可南ちゃんが出かけようとするところだったので、いっしょに帰ってきたんだ。自動車のなかで話を聞いたがいったいどうしたというんだ」  啓子は返事をせずに寝返りをうつと、薄い|夏《なつ》|蒲《ぶ》|団《とん》のなかですすり泣きはじめた。  可南子には啓子がなぜ泣くのかわかっていたけれど、弁解がましいことはいいたくなかった。いったって信用してもらえるかどうかわからない。 「怖かったでしょう。でも、もういいのよ。裕三さんも帰ってきたんだから。裕三さん、おまわりさんが待ってるんじゃない?」  庭には警官が待っていた。新聞社の連中もおおぜい詰めかけているようだった。いま売り出しの推理作家の邸宅から女の死体が掘り出されたとあっては、ニュース・バリュー満点だったのだろう。  そんな忌まわしいものが出てきたとあっては裕三にももうその日時計に未練はなかった。かれの許可を得て目のまえで日時計がこわされた。  なかに詰められていたのは果たしてミイラ化した女の死体であった。  肌には一糸もまとってなく、そのポーズは側面に彫られた浮き彫りとそっくり同じであった。  いや、ただひとつちがったところがあった。ミイラ化した女の二の腕には腕環がなかった。しかし、だれもそれに気がつかなかった。      五  あと五枚カレンダーをめくれば十月だというのに、いつまでたっても暑かった。ことしは梅雨も長かったが夏も長いようである。  緑ケ丘町緑ケ丘荘にある|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》の部屋には、この夏からルーム・クーラーを取りつけて、だいぶしのぎやすくなっている。それにもかかわらず金田一耕助は、さっきからうだるような顔をして、書斎兼応接室のなかを歩きまわっている。  時間は三時十五分。  金田一耕助はいまひとを待っているのである。相手の名は田代啓子というのだが、金田一耕助にはむろん心当たりのない名前だった。一時ごろ電話をかけてきて、なにかお願いしたいことがあるからぜひ会ってほしいというのであった。じつはきょう五時に金田一耕助は都内の某所でひとに会う約束になっていた。だから田代啓子なる女性との会見の時間を、かっきり三時と指定しておいたのに、約束の時間を十五分も過ぎるにもかかわらず、まだ電話のぬしは現われなかった。金田一耕助がうだるような顔をしていらいらしているのもむりはない。  三時二十分。受付の交換台から電話がかかってきた。 「田代啓子さんてかたがお見えになっておりますが……」 「ああ、そう、さっそくこちらへ」  それから三分ののち部屋へ入ってきた女を見て、金田一耕助は思わず目を見張った。かれはもっと成熟した女を期待していたのに、いま目のまえに立っている娘は、やっと高校生程度の年ごろではないか。 「きみだったの、さっき電話をくれた田代啓子さんというのは?」 「あら、ごめんなさい。あたし啓子の妹で晶子です。堀晶子というんです」 「ああ、そう、お姉さんが来られなくなったので、きみが代理で来たの」  金田一耕助はなんだと心中舌打ちをするような気持ちであった。  さっきの電話ではいまにも殺人が起こりそうなことをいっていた。自分の生命がだれかにねらわれているような話しっぷりだった。その語気の真に迫った様子に、金田一耕助もついつりこまれて、多忙な時間をさく気になったのだ。それをこんな小娘を代理によこすところをみると、どうせたいした話ではあるまい。  しかし、いままでニコニコといたずらっぽく笑っていた晶子の顔が、急に真顔になって引きしまった。 「いいえ、金田一先生」  と、ソワソワしながら早口になって、 「姉はあとからやってきます。姉が来るまえに先生にお目にかかっておきたかったんです」 「それ、どういうこと?」 「そのまえに、先生、お願い。受付へ電話をかけて、姉が来ても田代啓子と名乗る女が、まえに訪ねてきたとはいわないようにと」  金田一耕助はあきれたように相手の顔を見なおした。すらりとスタイルのよい娘であった。色白で器量も悪くなかった。しかし、まだ成熟しきらぬ体はおとなと子供の中間ぐらいである。いや、しいておとなになろうとして背のびをしている年ごろである。 「金田一先生」 「ああ、そう、いいよ」  金田一耕助は受付へ電話をかけて晶子のいうとおりにした。この娘の小まちゃくれたところにちょっと興味をもったのである。 「さあ、じゃ、こっちへ入りたまえ」 「いいえ、いいんです。あたしすぐ帰ります。姉に見つかるといけませんから。先生」 「うん」 「姉のいうことを信用してはいけません。姉はすっかりノイローゼになっているんです。|義《あ》|兄《に》が急にえらくなったもんだから、姉はそれについていけなくてヒステリーになってるんです」 「失礼だがお兄さんというのはどういうひと?」 「あら、姉は電話でそれをいいませんでした」  この娘、姉の電話をぬすみ聞いていたのである。 「いいや、聞かなかった」 「ああ、そう、でも、先生はご存じでしょ。田代裕三って人気作家を。姉はあのひとの妻なんです」  田代裕三ならもちろん金田一耕助も知っていた。それにミイラ化した女の死体のことも新聞で読んでいた。金田一耕助は急に興を催した。 「それで……?」 「姉はなんだか被害|妄想狂《もうそうきょう》みたいになってるんです。だれかに義兄をとられやしないかって。もっともその心配がないこともありません。姉がもっと義兄の仕事を理解してあげなければ」 「晶子君にはお兄さんの仕事が理解できるんだね」 「ええ、それは、いくらか……」  さすがに晶子は口ごもった。顔を赤くして、 「少なくとも姉よりは……、だから姉はあたしにまで|嫉《しっ》|妬《と》するんです」  金田一耕助はあきれたように晶子の顔を見ていたが、やがて苦笑しながら、 「それでお姉さんはだれをいちばん恐れてるふうかね。晶子君のほかには……」  晶子がなにかいおうとするまえに電話のベルが鳴り出した。 「ああ、先生、姉ですわ。姉だったらあたし見つからないように帰りたいんですけれど」  金田一耕助が受話器を取ると、果たして田代啓子の来訪を知らせる電話だった。 「ああ、そう、じゃ、三分たったらこちらへよこすように取り計らってくれたまえ」  受話器をおくと、 「晶子君、廊下を突き当たると裏階段がある。そこから帰りたまえ」  晶子はドアから外へとびだしながら、 「先生、姉のいうことはくれぐれも信用なさらないで」 「まあ、いい、わたしにまかせておきなさい」  晶子の姿が裏階段のほうへ消えたと同じ瞬間に、田代啓子がドアの前に現われた。  あの恐ろしい死体が日時計のなかから発見されてから、まだ三|月《つき》しかたっていないのだが、啓子の変わりかたは大きかった。可南子とちがってこまやかにととのった器量だけに、|窶《やつ》れがひと一倍目につきやすく、|老《ふ》けるのが早いのではないかと思われる。  さむざむと肩をすぼめてデスク越しに、金田一耕助のまえに席をしめると、田代啓子はあらためて身分を名乗った。金田一耕助はほほうというような顔をしてみせたが、そういうところは堂に入ったものである。 「金田一先生もご記憶だと思いますけれど、この六月のおわりごろ、わたしどもの庭から発見された女の死体のことなんですけれど」 「そうそう、そんなことがありましたねえ。あれがなにか……?」 「はあ、あの事件はいちおう解決したということになっておりますわね。あの死体は|須《す》|藤《どう》珠子というひとで、犯人は、珠子の愛人だった、神保晴久というエカキさん、つまり神保というひとが愛人を殺して日時計のなかへかくし、自分はそれから一か月ほどのちに交通事故でか、あるいは自分の意志でか死亡した……と、そういうことになっておりましょう」 「はあ、わたしも新聞で、そう読みましたが」 「ところがじっさいはそうではなく、犯人はべつにあるんじゃないかって、近ごろになってそんな気がしてきたんです」 「はあ、なにを根拠に?」 「こんなことを申し上げると先生はお笑いになるかもしれませんが、近ごろあたしのまわりにちょくちょく妙なことが起こるんですの。たとえば……」 「たとえば……?」 「きょうなんかも出かけようといたしますと、だれかが自動車のエンジンにいたずらしておりますの。じつはお約束の時間に半時間近くも遅れたのはそのためなんですけれど」  自動車のエンジンにいたずらしたのは晶子ではないかと思ったが、金田一耕助はいわなかった。 「そのほかいちいち申し上げませんが、あたし近ごろだれかにねらわれているんじゃないかって、そんな気がしてならないんですの」 「つまり日時計殺人事件に関してですか」  当時あのミイラ化した女の死体について、ジャーナリズムはそう呼んでいたのである。 「はあ」 「しかし、あの事件は他に犯人があるとして、どうしてあなたをねらうんでしょう」 「ちょっとこれをごらんになって」  啓子が床から取りあげたのは四角な|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》づつみであった。開くとなかから出てきたのは「うずくまる女」のキャンバスである。 「これがなにか……?」 「先生はあの死体が発見されたとき、日時計の五つの側面に女がうずくまっているところが浮き彫りにしてあったということを新聞でお読みじゃございませんでしたか」  金田一耕助ははっとしたように油絵のおもてに目を走らせた。 「ああ、これ……?」 「はあ、これが下絵じゃなかったかと思うんです。あの当時、あたしついこのことを警察のひとたちに話すのを忘れていたんですの」 「これ、どこにあったんです?」 「アトリエの二階の押し入れのなかに突っ込んであったんですの」 「それで、これがなにか……?」 「その絵をごらんください。左の二の腕に腕環みたいなものをはめておりましょう。日時計の側面の浮き彫りも同じで、左の腕の見えてるのが三面ございましたが、どれにもその絵と同じように腕環をはめていたんです。ところがじっさいに発見された女の死体……あたし怖かったのでとうとう見なかったんですけれど、新聞の記事をあとから読んだところでは、腕環のことは出てませんでしたね」 「はあ、わたしも記憶がありません」 「と、すると発掘された死体の腕には腕環がなかったということになるんじゃないでしょうか。ところが、これをごらんになって」  啓子がハンドバッグのなかから取り出したのは、日本紙にくるんだものである。金田一耕助はそれを手にとって開いてみて、思わず大きく目を見張った。  |蛇《へび》が|尻尾《し っ ぽ》をくわえた黄金の腕環であった。油絵のほうはそれほど正確にかいてはなかったが、だいたい同じデザインの腕環とうけとれた。 「この腕環はどうなすったんですか」 「もと日時計のあったすぐそばに|百日紅《さるすべり》の木があるんです。日時計を動かしたときその百日紅の根もとが少しえぐられたんですのね。いまから一週間ほどまえの朝早くあたしそのへんを歩いていると、土のなかになにやらキラリと光るものを発見しました。拾いあげてみるとこの腕環なんですの」  啓子がそこでゾクリと肩をすぼめたのは、ルーム・クーラーのせいばかりではなかったであろう。 「なるほど、それ以来あなたの身辺に変なことが起こるというんですね」 「いえ、あの、あたしの身辺に妙なことが起こりはじめたのは、それよりだいぶんまえからのことですけれど……」 「妙なことというとどういうこと?」 「はあ、あの、自動車のブレーキがこわれていたり、食べ物の味が少しおかしいので飼犬に食べさせてみると、犬が猛烈に吐き下したり……そのほかいろいろとまあ。きょうなんかもそうでございましょう」  なるほどこれは被害妄想狂もいいとこだと、金田一耕助は、あらためて啓子の顔を見なおした。 「つまり奥さんの考えかたはこうなんですね。あの日時計殺人事件の犯人は神保晴久じゃなくてほかにある……」 「はあ、ですから、神保さんのあれも自殺でもなければ偶然の事故でもなく、あれも|企《たくら》まれた他殺じゃないかと……」 「なるほど」  さすがは推理作家の細君だけのことはあると、金田一耕助はほほえんだ。 「しかも犯人にとってはなんらかの意味で、この腕環が重大な意味をもっている。そこで奥さんをねらいはじめた……と、こうおっしゃるわけですね」 「はあ」 「ところであなたはこのことをご主人におっしゃいましたか」 「いいえ、それはまだ……と、申しますのは主人はああいう小説を書いていながら、とても神経質なひとなんです。ですからあのひとはそっとしておいてあげたいんです。ただ創作に専念できるようにしておいてあげたいんです。ですから先生がこの事件をお引き受けくださるにしても、主人には内緒にしておいていただきたいんですが……」  金田一耕助を見つめる啓子の|瞳《ひとみ》には、一種異様なかがやきがあり、それはなにかに取り|憑《つ》かれたもののようであった。  これを要するに田代啓子という女が、相当ひどいノイローゼであることは金田一耕助も認めるにやぶさかでなかった。しかし、晶子はそれを夫のあまりにも急激な出世にあるといっているのに反して、啓子の言によると、その原因が日時計殺人事件にあるということになっている。  そこの食いちがいは、いったいどうしたことなのだろう。      六  金田一耕助が田代啓子の訪問をうけたのは、まえにもいったとおり九月も終わりに近い二十七日のことだった。  あとにして思えば金田一耕助はそのときすぐに行動を起こすべきだった。いや、少なくとも啓子がこういう恐怖に取りつかれているということについて、夫である田代裕三にだけでも注意を喚起しておくべきだったかもしれない。  金田一耕助がそれを怠ったのは、ちょうどそのころかれが他の事件に忙殺されていたのと、もうひとつはなんといっても妹の晶子の事前通告がきいたのである。  夫が急に|流《う》|行《れ》っ|児《こ》になったがために、妻がノイローゼに取りつかれたということは、うなずけることである。そのノイローゼが|昂《こう》じたあげく、一種の|妄《もう》|想《そう》をいだきはじめたのだろうと、金田一耕助が、啓子の訴えを軽く考えすぎたというキライがなきにしもあらずである。啓子のノイローゼの原因がなににしもあれ、そこにひとつの犯罪計画が着々として準備され、進行中だったということを見通せなかったのは、なんといっても金田一耕助の大失態だったというべきであろう。  十月一日。  金田一耕助はやっと体に|隙《ひま》ができたので、久しぶりに警視庁の捜査一課、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部の部屋を訪れた。日時計殺人事件についてなにか聞けるかもしれないと思ったからである。  警部はいかにも忙しそうであった。しかもなにか事件があったらしく、これから出かけようとするところであった。さすがに金田一耕助も遠慮しようかと思ったが、むこうのほうから誘いをかけてきた。 「金田一先生、ちょうどよいところへお見えになった。あなたいまお忙しいですか」 「いや、きのうひとつ片づけたところで、きょうはひとつ警部さんをからかってあげようと思ってやってきたんですが、なにか……?」 「はあ、じつは……。そうそう、あなたは推理作家の田代裕三という人物をご存じですね」  金田一耕助はギクリとして、 「はあ、そりゃもちろん知ってます。いま売り出しの作家ですからね。それにあの日時計殺人事件……」 「そうそう、その田代裕三ですがね、ゆうべそこで殺人事件があったんです」 「殺人事件……?」  金田一耕助のおもてが思わず硬直した。 「被害者はいったいだれ……?」 「それがね、田代の細君の妹で晶子という娘なんです。わたしゃけさほど報告を聞いてすぐ駆けつけたんですが、これからまた出直していくところなんです。どうです、金田一先生、あなたもごいっしょしませんか」  金田一耕助がその誘いに応じたことはいうまでもない。みちみち自動車のなかで、 「ところで、警部さん、こんどの事件とこの六月末に発見された、いわゆる日時計殺人事件となにか関係があるんでしょうかね」 「まさか」  と、等々力警部はあきれたように苦笑して、 「あの事件は昭和二十八年に起こった事件です。もう七年以上もたってるんですよ。それにあの事件はいちおう解決してるんですからね」 「と、おっしゃるとあのミイラ化した死体のぬしは珠子という女であり、犯人は神保晴久という人物だというわけですか」 「ええ、そう、当時も神保の交通事故死は疑問視されていたんです。ひょっとすると自殺じゃないかという説もあったんですね。珠子という女を殺害し、死体をどこかへ|隠《いん》|蔽《ぺい》し、結局そのための自殺じゃないかと説をなすものもあったんです。ただ死体のありかがわからなかったので、そのままうやむやになってただけのことなので、これはもう疑いの余地はありません」 「そうすると同じ家でまた殺人事件が起こったというのは、まったく偶然というわけですか」 「まあ、そうですね」 「それで、田代裕三はなんといってるんです」 「いや、それがいま旅行中なんです。文芸年代社主催の講演旅行で九州へ行ってるんですが、このほうはけさ早く電話で連絡がとれて、さっそく帰京することになってますがね」 「じゃ、アリバイありということですね」 「そうです、そうです」 「で、細君はなんといってるんです」 「いや、その細君というのが文字どおり気も狂乱のていたらくでね、妙なことをいうんですよ」 「妙なことって」 「妹はこの七月に東京へ出てきたばかりである。だから妹をねらうものがあろうとは思えない。これはきっと妹は自分とまちがえられて殺されたのにちがいないって」 「なるほど。すると細君なら殺される理由があるというわけですか」  金田一耕助はしらばくれた。 「それなんです。その点を追及すると、ただ泣きわめくだけで、はっきりしないんです。もっともこの細君、啓子というんですが、あの日時計のなかから死体が発見されて以来、相当ノイローゼがはげしかったそうですから、なにか強迫観念をもってるかもしれませんね」  それにしても啓子はまだあの腕環のことを警察にいってないらしいがそれはなぜだろう。  それからまもなく金田一耕助と等々力警部のふたりは、成城の田代邸へ到着した。警部が電話をかけておいたので死体はまだそのままにしてあったが、晶子はあのアトリエの二階の小部屋のなかで絞殺されていた。そこはいつか啓子が可南子に話したとおり、ちょっと小ぎれいな寝室に改造されていたが、晶子はその寝室のベッドのなかで、ネグリジェ姿のままで絞殺されていた。|咽《の》|喉《ど》のまわりにはなまなましい|紐《ひも》のあとが鮮やかに印せられていたのである。      七  当時評判になったこの事件があっけなく解決したのは、事件から一週間目に啓子が自殺したからである。啓子はあとに遺書を残した。それによると晶子を殺害したのは啓子であった。しかし、なぜ姉が妹を殺さねばならなかったのか、その動機までは明らかにされていなかった。  当然そこにはいろいろな|揣《し》|摩《ま》|臆《おく》|測《そく》が横行した。晶子はひょっとすると裕三と関係があったのではないか。そして、姉の啓子がそれを|嫉《しっ》|妬《と》したのではないかというのが、いちばん有力視されていた。  その根拠となるのは晶子が、ネグリジェ姿でアトリエの二階に寝ていたということである。  しかし、それにしても、当時裕三は旅行中だったのである。晶子もそれを知っていたことはいうまでもない。それにもかかわらずなぜ彼女はアトリエの二階に寝ていたのであろうか。  裕三はむろん義妹と関係があったということについて強く否定していた。また晶子がなぜあそこに寝ていたのか、自分としては見当もつかぬといいはっている。  結局、こうして相当の疑惑を残しながらも、この事件はいちおう解決したことになっている。  こうしてひと月たって、十一月三日の夜のこと、金田一耕助は渋谷にある、とある中華料理店の奥座敷で、だれかひとを待っていた。  七時ジャスト。女中が客を案内してきた。客は田代裕三だったが、金田一耕助にとって意外だったのは可南子がいっしょだった。  金田一耕助と田代裕三とは初対面ではなかった。あの事件の当時会っていた。松並可南子とも同様なのであった。 「金田一先生」  と、|挨《あい》|拶《さつ》が終わると、さっそく裕三が切り出した。 「お手紙は拝見しました。わたしとしては非常な驚きだったんですが、じつはこのひとにも先生の手紙を読んでもらったんです。そしていっしょに来てもらって、いろいろ意見をたたかわしたほうが、この事件の真相究明にも役立つのではないかと思ったもんですから、こうしていっしょに来てもらったんですが……」 「いや、けっこうですとも。今夜はひとついろいろ腹蔵なく話しあおうじゃありませんか。なお念のために今夜われわれのあいだでどういう結論が出ようとも、わたしの口からぜったいに外部へもれるようなことはありませんから、その点はご安心ください」 「ありがとうございます」  裕三は軽く頭を下げて、 「ところで先生はそこに啓子があずけていった腕環というのをお持ちですか」 「はあ、これなんですがね」  金田一耕助が取り出した黄金の腕環を手にとってみて、 「金田一先生がご調査になったところによると、これは啓子自身がこの九月に天銀堂に注文してつくらせたものなんですって?」 「そうです、そうです」  と、金田一耕助は微笑して、 「それはもうぜったいにまちがいはありません。なんならあなたご自身おたしかめになってみてください」 「先生」  可南子は|膝《ひざ》をすすめて、 「啓子ちゃんはみずからそんな腕環をつくっておいて、なんだってそんなバカな話……日時計殺人事件の犯人に生命をねらわれているなんて話を、先生のところへ持ちこんだんでしょう」 「いや、じつはその点についてあなたがたからご意見を伺いたいんですが……」 「でも、先生にもご意見がおありなんでしょう」 「はあ、それはいささか」 「じゃ、それから伺わせてくださいません? そのあとであたしどもも申し上げてもよろしいんですが……」 「はあ。じゃ、申し上げましょう。啓子さんはやっぱりだれかを殺害しようと|企《たくら》んでいたんじゃないか。しかも目ざす相手は女性であった。その女性を殺しておいて、犯人は自分とまちがえて殺したのではないか……と、そうもっていくために、わたしにむかってあらかじめ伏線を張っておいたんじゃないか。しかし、啓子さんのねらった相手は晶子ちゃんじゃなかった。啓子さんは間違い殺人事件を演出するつもりで、まちがって妹さんを殺してしまったのではないか……と、いうのがわたしの臆測なんですがね」  裕三と可南子は硬直した顔を見合わせていたが、ふたりの顔色からして、かれらもすでに同じ結論に到達していたらしいことが明らかだった。 「金田一先生、恐れ入りました」  裕三はまた軽く頭を下げて、 「啓子のねらった女がだれであるかは、先生もすでにおわかりでしょうが、これについてはわれわれふたりにも重大な責任があるんです」 「重大な責任とおっしゃると……?」 「このことはいまとなっては先生が世間に公表なすってもかまいませんが、じつはわたしの作品のなかの相当数が、ここにいるこのひとの発想によるものなんです」  これは金田一耕助にとってはまったく意外な告白だった。  かれは、もっとべつの関係を想像していた自分を恥ずかしさで、思わず顔のあからむのをおぼえた。 「このことは……」  と、裕三は|昂《こう》|然《ぜん》として、 「作家としてはべつに恥ずべきことではなかったのです。最初の発想はこのひとでもそれに肉付けし、またじっさいに筆をとるのはぼくなんですから。ところがわたしのケチなプライドがそれを世間に知られることをぜったいに好まなかった。妻の啓子にさえも。そこにこのひととわたしのあいだにひとつの秘密が生じてきた。啓子がそれをふつうありきたりの男女関係、恋愛関係と誤解したのも、いまにして思えばむりはなかったでしょう。啓子はこのひとによって妻の座を奪われやしないかと、それを恐れたんだと思うんです」 「あるいはもっと突っ込んで臆測すると、あなたがたふたりが共謀して、自分を殺害しようとしているのではないかという|妄《もう》|想《そう》をもったかもしれませんね」  可南子はハッとしたように膝においたハンケチを握りしめた。 「そうでした。金田一先生」  |悄然《しょうぜん》として、 「いまにして思えば、啓子ちゃんはたしかにそういう強迫観念をもっていたようです。このことは裕三さんにもいってなかったんですけれど」 「ところで啓子さんはなにかあなたに……?」 「金田一先生、それはお聞きにならないで。あの晩あたしをあの家へ呼びよせようとしたんです。しかも裕三さんの名前を使って。それは非常に幼稚なトリックでしたし、あたしはあのひとが自分に対して、一種の危険な感情をもってることを知ってましたからそれには乗らなかったんです。それに第一裕三さんが旅行中だってことも知ってましたから。しかし、まさかあんな|大《だい》それたことを……」  可南子は呼吸をのんで絶句した。目が宙にうわずっていた。 「それを晶子さんが身代わりになったというわけですが、その点についてなにか……?」 「そればっかりはいくら裕三さんと話しあってもわからないんです。先生のこのお手紙によると晶ちゃんはある程度お姉さまの計画を知ってたようですが、まさかみずから進んであたしの身代わりに殺されようとは……」  この点だけが、だからいまもって|謎《なぞ》になっている。  あるいは晶子こそ姉の座を奪うことを空想して、あの部屋で裕三に抱かれている自分を脳裏に楽しんでいたのではないか。     猟奇の始末書     |白《しら》|浜《はま》海岸 「いやはや、|三《みつ》|井《い》さん、このお暑いなかをあいもかわらず、ご酔狂なことでいらっしゃいますね」  三井をさがしてなにげなく望楼まであがってきた|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》は、あきれかえったように眼を見張った。  三井|参《さん》|吾《ご》はさすがに照れて|頬《ほお》を薄く染めると、 「あっはっは、金田一先生、|面《めん》|目《ぼく》しだいもございません。さぞかし年がいもないやつとお思いでしょうな」 「ご自分でそれに気がついていらっしゃるところをみると、まだしも脈があるというべきでしょうか」 「やー、こいつは手きびしい」 「あんまりそんなまねに|憂《う》き|身《み》をやつしていらっしゃると、欲求不満型とまちがえられますぜ」 「ところがじっさいにおいてこのわたし、|目《もっ》|下《か》欲求不満というところでね、どうぞそのつもりでおつきあい願いたいものです」 「ヌケヌケとおっしゃいましたね。そんならさっさと再婚なさることです。そうすりゃ望遠鏡のぞきなんぞと、きれいさっぱり縁が切れましょう」 「いや、わたしもそうありたいものですが、帯に短し|襷《たすき》に長しというやつで……ま、月並みな|台詞《せ り ふ》ですがね」 「いや、それはむりもないでしょう。亡くなられた|先《せん》の奥さんが、あまりにもよくできていらっしゃいましたからね」  さすがに金田一耕助はしんみりいって、|胸壁《きょうへき》のそばへ寄った。そこに取りつけられている望遠鏡に眼を当てがうと、焦点は果たして土地のひとのいうところの人魚の|洞《どう》|窟《くつ》に合わされている。  そこは近ごろにわかに発展してきた海水浴場、|白《しら》|浜《はま》海岸のはずれにあたっている。遠浅の海を抱いた数百メートルの砂浜を、そこでピリオドを打つように、けわしい|崖《がけ》が海面へ落下している。  三井参吾の別荘はその崖の上に建っているのである。かれがこの別荘を建てたころ白浜海岸はまだほとんど世間に知られていなかった。もとこの辺は|要《よう》|塞《さい》地帯になっていた関係もあって、世間から隔離されてもいたし、交通の便も悪かった。三井参吾のような一風変わったジレッタントででもないかぎり、眼をつけそうな場所ではなかった。  ところが近ごろつい近くに私鉄が通じた。白浜海岸という駅までできた。それからのちの発展ぶりは、三井参吾のような孤独癖をもつ男として、|眉《まゆ》をひそめさせることが多かった。胸壁をこえてくる五メートルくらいの潮風が、|雀《すずめ》の巣のような金田一耕助のもじゃもじゃ頭をもてあそぶ。例によって例のごとく、幾度か水をくぐった金田一耕助の|白絣《しろがすり》の|袂《たもと》と、|襞《ひだ》もよれよれになった|夏袴《なつばかま》が、ハタハタと風に音を立てた。いくらか|鼠《ねずみ》色になった白|足《た》|袋《び》にビニールのスリッパをつっかけていた。  人魚の洞窟にはいまだれもいなかった。濃い|藍《あい》色をした水が、|淵《ふち》の深さを思わせるように落ち着いている。この洞窟には|天井《てんじょう》がなかった。したがって海抜二十メートルくらいの崖の上に建っている三井参吾の別荘からは、斜め上からのぞき見することができるのである。望遠鏡の焦点をそこへ合わせると、手に取るように内部が見える。  淵の広さは畳敷きで八畳くらいもあるだろうか。そこで崖が縦に裂けているのだが、むこうの崖がうんと高くそびえているのに反して、手まえのほうは海抜五メートルあるかなしである。三井参吾の望楼からのぞき見するのにうってつけにできている。  しかもこの洞窟の入り口には、|鋸《のこぎり》の歯のように岩が海面から突出していて、それが太平洋から来る波浪を、いったんそこで|堰《せき》止める役目をしていると同時に、外部からの|視《し》|野《や》をさえぎっている。鋸の歯のような岩々に、いま波浪が白く砕けて散っているのに反して、その裏側がおだやかに|凪《な》いでいるのもそのためである。  この洞窟にはおりおり、若い男女をのっけたボートがまぎれこんでくる。外部からの視界からいっさい|遮《しゃ》|断《だん》されていると、ついうっかり安心した男と女が、ほの暗いその洞窟のおだやかな波の動揺を楽しみながら、大胆な演技を展開することがしばしばある。崖の上の別荘から三井参吾の|猟奇的《りょうきてき》な眼が、ひそかな悦楽にかがやいているとも知らずに。  金田一耕助は望遠鏡の焦点をかえると、その洞窟を抱いている|屏風《びょうぶ》のような崖をこえて、はるかな白浜に眼をやった。  文字どおり白くかがやくその浜辺には、|茸《きのこ》のようにビーチ・パラソルがならんでいる。それらの茸は人魚の洞窟を遠くはなれるにしたがって密集しており、百メートルほど先からは、まるで砂糖の上に|蟻《あり》がたかっているようだ。人魚の洞窟に近づくにしたがって、海面にかくされた岩が多くて危険なのである。  沖にはヨットやモーターボート、太陽がいっぱいである。 「あっはっは、三井さん、おあいにくさまでしたね」  金田一耕助がふりかえると、三井参吾はデッキ・チェアーにふんぞりかえって、ストローでジュースをのんでいる。 「なにが……?」 「だってお目当てのあの洞窟、いまカラッポじゃありませんか」 「カラッポ?」  三井はちょっと体を起こして、 「そんなこたアありませんよ。ボートが一|艘《そう》もぐりこんでるはずですよ」 「ボートが一艘……?」  金田一耕助はもう一度望遠鏡の焦点を人魚の洞窟に合わせてみたが、ボートらしいものは見当たらなかった。 「ハテナ、そんなはずはないんだが……わたしが見てたときにゃ、女がひとり人待ち顔にボートのなかでふんぞりかえってたんですが……」  三井参吾はデッキ・チェアーから立ちあがって、ノッソリと望遠鏡のそばへやってきた。  年齢は四十五、六というところか、金田一耕助とおっつかっつの年ごろだろう、|小《こ》|鬢《びん》にチラホラ白いものをまじえているが、水泳パンツ一枚の裸身は、ムッチリと肉付きがよく、|陽《ひ》にやけにくい体質とみえて、みずみずしい|肌《はだ》は女もうらやむくらい白くて柔らかそうである。いわゆる|餅《もち》|肌《はだ》というやつだろう。男っ振りも悪くない。  三井参吾は胸壁に取りつけてある望遠鏡に眼をあてがって、しばらくあちこちいじっていたが、 「ホラホラ、やっぱりあそこにおりますよ。こっちの崖のかげにかくれて、はしっこだけしきゃ見えないんです。ちょっとごらんなさい」  三井参吾に席をゆずられて、金田一耕助も苦笑しながら望遠鏡に眼をあてがった。  なるほどボートの|舳《へ》|先《さき》が崖のかげからのぞいており、軽く波にゆれている。その舳先に女の素足がのっかっているところを見ると、水着の女が|仰《あお》|向《む》けに寝そべっているらしい。それ以上は崖のかげにかくれて見えなかった。 「女はひとりなんですか」 「ええ、そう、待ち人来たらずというところじゃないですか。そうそう、ホラ、あそこにアベックを乗せたボートが|遊《ゆう》|曳《えい》してるでしょう。ちょっと望遠鏡をのぞいてごらんになりませんか」 「いや、望遠鏡はけっこうですが、あのアベックがどうかしましたか」 「いやね」  と、もとのデッキ・チェアーへ帰ると、そばにあるアイス・ボックスを開いてジュースの|瓶《びん》を取り出した。|栓《せん》を抜いてテーブルの上へおくと、 「どうです、一本」  と、ストローをそえて差し出した。  テーブルの上にはビーチ・パラソルがかざしてあって、照りかえしの強い日影をつくっている。 「いやね、むこうに遊曳してるアベックのボートですがね。さっき洞窟のなかへ入ろうとしたんです。ところがあにはからんや、そこにゃ先客があったでしょう。そこでさあらぬ|態《てい》で逃げ出していったんですが、いまもってあのへんを遊曳してるところをみると、まだあの洞窟に未練があるとみえますね。いや、まったくもって千客万来というわけで、ときどきわたしもいい眼の保養をいたしますよ。あっはっは」  金田一耕助はストローの口を吸いながら、うわの空で三井参吾の話を聞いていたが、その眼はテーブルの下の|棚《たな》にある奇妙なものにそそがれている。     奇妙な弓  三井参吾は洋画家としていちおう有名だが、べつに絵を売らなければ食っていけないという境遇ではない。親からゆずられた相当大きな財産をもっており、そのことがかれを好むと好まざるにかかわらずジレッタントに追いやった。  ことに昨年恋女房を失ってからというものは、一種の虚脱状態とでもいうのか、仕事らしい仕事はなにひとつしていないらしい。娘がひとりあるがいまアメリカへ留学しているから、文字どおりひとりものの気安さである。ちょくちょくキャバレーやナイト・クラブ、また|花柳界《かりゅうかい》などへも出入りをしているらしいところをみると、そういうところの女を相手に遊んでいるのかもしれないが、なかなかひとに|尻尾《し っ ぽ》をつかませない|狡《ずる》さをもっている。亡くなった妻の一周忌もとっくの昔にすぎているにもかかわらず、いまだに結婚しようとしないのを金田一耕助などは心配している。  金田一耕助とは中学時代の同窓だが、三井のほうが一年先輩になる。 「ときに、三井さん、そこになんだか妙なものがありますね。いったい、それなんなんです」 「あっはっは、見つかりましたね。これ……」  三井参吾がテーブルの下の棚から取りあげたものを見て、金田一耕助は思わず大きく眼を見張った。 「ほら、これ、こう構えるんですね」  三井がふざけてぴったりと金田一耕助の|胸《むな》|板《いた》めがけて構えたのは、西洋ふうの弓と矢である。近ごろテレビ映画でやっているロビン・フッドが持っているやつだ。日本流の弓とちがって矢をつがえて水平に構えるのである。アーチェリーというのだろう。  金田一耕助は思わず体をそらして、 「そんなもの、どうなすったんです」 「ナーニ、友人が外国みやげに持ってきてくれたんです。どこかの|骨《こっ》|董《とう》屋で見つけてきたんですね。わたしがこういうゲテ物に興味をもってるってことを知ってるもんですから」 「しかし……」  と、金田一耕助は手にとってみて、 「わたしこういうもの、じっさいに見るのははじめてですが、これ少し型が小さいんじゃないんですか」  そういえばテレビ映画に出てくるロビン・フッドのもっている弓や矢から見ればだいぶ小さくなっていて、矢の長さは鉛筆より少し長いくらいである。 「だから、これ、おもちゃじゃないんですか。それともジュニヤーむきかな」  おもちゃにしては|頑丈《がんじょう》にできているし、|鏃《やじり》のきっさきも鋭かった。もっとも長く使用しないので赤く|錆《さび》ついてはいるが、それでも心臓をねらって切って放てば、おそらく相手を射殺すことは十分可能であろうと考えられる。 「それにしても……」  と、金田一耕助は鋭く相手を見すえながら、 「あなた、こんなものをもち出していったいなにをしてらしたんです」 「あっはっは!」  三井参吾はつるりと|額《ひたい》をなであげると、 「きのう、ちょっと|悪《いた》|戯《ずら》をやらかしましてね」 「悪戯とおっしゃると……」 「いや、ほんとうをいうとあそこでゴチャゴチャやられるのかなわんのです。わざわざここまで登ってこなくとも、ほらこの下に見えてるアトリエの窓からでも、あの洞窟の入り口がかなりよく見えるんですよ。あんなもん気にするなとおっしゃっても、こっちもまだ若いし……わたしゃこれでもまだ若いつもりでいるんですからね」 「はあ、それゃあなたはまだお若いです」  金田一耕助は真顔でいった。金田一耕助はおのれの貧弱な肉体に比較して、この男のみずみずしい若さに|羨《せん》|望《ぼう》に似た気持ちをもっていた。 「いや、どうも」 「それで……?」 「はあ、それでね、あの洞窟の入り口のあたりを、若いアベックをのっけたボートがウロチョロしてると、つい気が散っちゃうんですね。ましてやそれが洞窟のなかへでも入っていくのが見えようものなら、どうしてもここへあがってきて、望遠鏡をのぞきたくなる。いやはや、どうも」 「それで……?」  金田一耕助の眼の鋭さは、ますますかがやきをましてくる。この男のいった悪戯という言葉の意味が、おいおいのみこめてきたような気がするのである。 「はあ、それでね。きのうも例によってあそこへ若いふたりをのっけたボートが、もぐりこんでいったと思ってください。わたしゃまたしてもムラムラと好奇心が|湧《わ》きあがってきた。そこでこの望遠鏡でのぞいてみると……あっはっは」  と、三井参吾はうつろの声をひびかせて、 「まさか手に取るようにというほどじゃありませんが、なにをやってるかくらいのことはわかるんですね。こいつを一本ひょうとばかりにお見舞い申し上げたというわけです。いやはや、どうも」  三井参吾はまるで悪戯を見つかった子供のように首をすくめて照れている。 「あなた、まさか」  と、金田一耕助はいよいよ鋭く相手を見すえて、 「人間をねらったんじゃないでしょうね」 「とんでもない。いかにいまいましいからといって、殺すほどじゃありませんや。それほどわたしも凶暴な男じゃありませんからね。それにわたしはロビン・フッドほどの弓の名人じゃない。むこうの|崖《がけ》をねらったんですよ。男と女がふざけているちょうど頭の上あたりのね」 「それで?……どうかしましたか」 「いやね、わたしは矢があの崖の一部にあたってハラリと水のなかへ落ちるのを見たんです。それからボートのふたりがギョッとしたように起きなおるのを見て、この胸壁にかくれたんです。それからしばらくしておっかなびっくりで頭を出してみると、ボートが洞窟の入り口からはなれていくのが見えたんです。あっはっは、いや、ふたりとも相当|狼《ろう》|狽《ばい》しておりましたよ」  三井参吾は|暢《のん》|気《き》そうに笑っている。  金田一耕助はきびしい眼で相手の顔を見すえると、 「それでこの矢は……?」 「いや、じつはね」  と、三井参吾はまた子供のように首をすくめて、 「きのうのふたりの逃げていくのがおもしろかったもんだから、きょうもう一度|悪《いた》|戯《ずら》をしてやろうと思ってね」  金田一耕助はあきれかえったような苦々しさを、露骨におもてに現わして、相手の顔を見すえていたが、ふとその眼を|鏃《やじり》の先に落とした。矢は全体にしっとりと|湿《しめ》りをおびていて、しかも、鏃の先はなにか固いものにでもぶっつかったように少し傷がついている。 「あなたこの矢を使ったことがありますか」 「いいえ、一度も。いや、それゃ練習にゃたびたび使いましたけれどね」 「ここに傷がついておりますけれど、なにか固いものでもねらったんですか」 「傷が……?」  三井参吾はちょっと鏃の傷をあらためたが、あいかわらず気にもとめずに、 「もとからあったんじゃないですか」 「でも、この傷、新しいですよ」 「そうですね。じゃ、なにかのときに固いものにぶっつけたんでしょう」 「それにしてもこの矢が湿っているのは……?」 「いや、それ、|花《か》|瓶《びん》のなかに落っこちていたんですね。ふだんは壁にかけてあるんですが……しかし、まあ、いいじゃありませんか。もうこんどは二度とやりませんから」 「三井さん」  金田一耕助は憂色をハッキリおもてに現わして、 「あなた早く再婚なさらなければいけませんね。あなたはいま生理的にも心理的にも非常に不安定な状態にあるんです。だからこんなバカな悪戯をなさるんですよ」 「いや、わかったよ。わかりましたよ。金田一先生、お説教はもうそれくらいで……ああ、だれか来た。その弓と矢はかくしてください」  三井参吾は金田一耕助の手からあわてて弓と矢をひったくると、ローブにくるんでデッキ・チェアーの下へつっこんだ。  この望楼へあがってきたのは男ひとりにふたりの女だ。いずれもいま海からあがってきたばかりと見え、ふたりの女は水に|濡《ぬ》れた水着の上にローブをはおっている。男は水泳パンツの上に大きなタオルをひっかけていた。 「あら、先生、ここにいらしたの、いやだわ、先生たら」  と、若い女は望遠鏡に眼をとめると、 「また、|覗《のぞ》きをしていらしたのね。最低よ」 「うっふっふ」 「なにかまたおもしろい見世物があって?」  と、女は胸壁から下をのぞいたが、 「あら、あのひとたち、どうしたんでしょう」  その女の声の奇妙さに金田一耕助も立って胸壁のそばへ行った。  水着を着た男がいまあわてて|洞《どう》|窟《くつ》のなかからとび出していくところであった。男は泳いでいるのではなく歩いているらしかった。両手で水をかきわけているが、その様子がいかにもあわてているようである。心は急ぐが脚がまえへ出ないといった格好である。  それでもやっと|鋸《のこぎり》のような岩の外へとびだすと、そこに待っているボートの上に駆けのぼった。ボートのなかには女が待っていたが、女のほうでもいいかげんあわてているようだ。男はやっとボートに駆けのぼると、オールをとって|遮《しゃ》|二《に》|無《む》|二《に》|漕《こ》いでいく。あわてているのでオールがしばしば|空《くう》を切った。  金田一耕助はふと視線を人魚の洞窟のなかに移した。さっきはほんの一部分しか見えなかったボートが、いまではすっかり視線のなかにのりだしていて、ブラリブラリと大きくゆれている。そのボートのなかに女がひとり、人形のようにしずかに横たわっているのを見て、金田一耕助はなに思ったのか、急いで望遠鏡に眼をあてた。  望遠鏡をのぞいている金田一耕助の顔には、しだいに汗が濃くなっていく。     女と矢 「あら、これタマキちゃんじゃない」 「タマキってだれですか」 「あたしと同じナイト・クラブに働いてるひと。そして、三井先生の……」  いいかけて|坂《さか》|巻《まき》|潤子《じゅんこ》はおびえたように、水のなかで金田一耕助の背後にかくれた。 「それじゃきのうからこちらへ来ているべきはずの、|堀《ほり》|口《ぐち》タマキというひとなんですね」  金田一耕助は念を押した。 「そうよ。これから白浜の三井先生の別荘へ遊びにいくから、あなたもひと晩泊まりの予定で遊びにきなさいって、あたしの部屋に置き手紙がしてあった人です。あたしたち同じアパートにいるもんですから」 「三井さん」  と、金田一耕助がなじるような眼をむけると、 「いいや、知らない。わたしはタマキに会っていない。少なくともここ数日は……それにタマキを招待したおぼえもない」  ボートの上の三井参吾は|額《ひたい》に|粟《あわ》|粒《つぶ》のような汗をいっぱいかいている。いくらか陽やけした顔が|藍《あい》をなすったように|蒼《あお》ざめて、がっちりと肉付きのよい全身の細胞が、恐怖と不安でかたく凝縮している。持ちまえの楽天的な|風《ふう》|貌《ぼう》はいっぺんにどこかへけしとんで、まるでベソでもかきそうな顔である。 「しかし、あなたのご存じのご婦人なんですね」 「ああ、それは……」 「どういう関係なんですか」 「どういう関係といって……」  同じボートに乗っている|小《こ》|坂《さか》|一《かず》|枝《え》に気をかねるように、 「まあ、遊び友達というところだが……」 「遊び友達とおっしゃると……? とにかく三井さん、正直におっしゃってください。いまに警察が来るとかくしているわけにゃいきませんからね」 「ふむ、それゃ……たまにゃいっしょにホテルへ出かけたこともあるが……しかし、それゃ、そのときそのときのその場かぎりのことで……さっきもいったとおり、わたしゃこれでもまだ若いんだからな」  三井参吾は|咽《の》|喉《ど》の奥から|搾《しぼ》り出すような笑い声を立てたが、いかにもそれはわざとらしく、参吾も気づいてすぐ笑いをとめた。 「小坂さん」  金田一耕助はボートのむこう側にいる男に声をかけて、 「あなた、このご婦人をご存じでしたか。このひと堀口タマキといってナイト・クラブで働いてるひとだそうですが……」 「ああ、一度会ったことがある」 「いつ」 「先週の週末だったね」 「どこでお会いになったんですか」 「ここでだよ」 「ここで……?」 「ああ、そう。この別荘でだよ」 「それじゃあなたは先週もここへいらしたんですか」 「三井が招待してくれたんだ。金田一君も知ってのとおり、おれみたいな貧乏教師にゃ避暑などとは思いもよらんこったからね。それで三井がお情けをもってときどきご招待くださるんだ」 「あなた、そんな言いかたを……」  ボートのなかから妻の一枝がたしなめるように声をかけた。 「あっはっは、べつに皮肉でいってるんじゃないよ。三井にゃ大いに感謝しているさ」 「そのときこのご婦人にお会いになったんですね」 「ええ、そう、そこにいる坂巻潤子君ともうふたり、いま、泳ぎにいってる若い男女のふたりづれ、以上四人にここでお眼にかかって紹介されたよ」  小坂|達《たつ》|三《ぞう》の口のききかたの|横《おう》|柄《へい》なのは、金田一耕助の先輩だからである。小坂と三井は中学時代の同窓だった。いま私立大学の文学部で助教授をやっている。 「そのとき奥さんもごいっしょでしたか」 「それゃもちろん、われわれ子供がないもんだから、三井が夫婦いっしょに招待してくれたんだ」  中学時代秀才だったこの男はどこか口のききかたに高飛車なところがある。|痩《や》せぎすだが長身で胸毛の濃い男である。眼がうわずってとがっていた。 「じゃ、奥さんもこの被害者、堀口タマキというご婦人にお会いになったことがおありなんですね」 「はあ、ちょっと……」  一枝はちらとタマキのほうへ眼をやったが、すぐローブを強く体にまきつけて、おびえたように視線をそらした。  この女はそこに殺されている堀口タマキや坂巻潤子とは、明らかに別の世界に住む人種である。それはよくいえばつつましやかな、悪くいえばもっさりとした水着のスタイルにも現われており、他人のまえに肌をさらすことを極端に恥じる種類の女のようだ。それでいてその肌の美しさはタマキや潤子の比ではなく、年は夫の達三より十以上も若いはずだということを、金田一耕助も同郷人だから知っている。  金田一耕助は以前からこの別荘へ招待されていた。いつか|厄《やっ》|介《かい》になることを約束していた。それがついいままで果たせなかったのだが、きょう思い立って訪れてきたところが、さっそくこの事件にぶつかったのである。かれもよっぽど貧乏性にうまれているらしい。金田一耕助はあらためてボートのなかの死体を見なおした。  その女は坂巻潤子とおなじ年ごろだが、器量といい、均整のとれた|肢《し》|態《たい》といい、潤子より数段すぐれている。派手なビキニスタイルの水着一枚、ローブをボートの底に敷くようにして、仰向けに倒れているのである。  乳当てを胸に当てていたらしいのが半分はずれて、むっちりとした女の乳房が露出している。  その左の乳房にグサリと突っ立っているのは、さっき三井参吾の別荘の屋上で見た、あの奇妙な矢とそっくり同じ品物である。矢は右下のほうからグサリと乳房に突っ立って、おそらくそのひと突きが致命傷であったろう。女の顔はなんの恐怖も示していなかった。 「金田一君、いつまでもこんなところにいてもはじまらない。とにかく早く警察に知らさなきゃ……」  小坂達三がガチガチと歯を鳴らしているのもむりはない。  潮がどんどん|洞《どう》|窟《くつ》のなかに満ちてきて、水のなかにいる小坂と金田一耕助と坂巻潤子の三人は胸もとまでつかっている。しかも、ひんやりとしたこの洞窟のなかでは、肌を刺すように潮が冷たいのだ。 「いや、もう少し……小坂さん、なんでしたらあなたむこうへいらしてもいいですよ。そうそう、あなた警察へ電話をかけてきてくださいませんか」  小坂達三はちょっとためらったのち、 「いや、それならもう少しここにいよう」 「三井さん」  と、金田一耕助は小坂夫人とともに別のボートのなかにいる三井参吾をふりかえって、 「このボート、お宅のボートだとおっしゃるんですね」 「ああ、そう、しかし、タマキがこのボートのなかで殺されているなんて……わたしゃこの二、三日ボートはボート・ハウスのなかへしまったままだったんだが……」  そのボート・ハウスはこの洞窟よりもう少し別荘寄りの|崖《がけ》の下にあり、別荘の裏口から急な坂をおりたところにできていた。  さっき屋上からこの死体を発見した一同はその坂を駆けおりてきたのだが、ボート・ハウスのなかにボートはなかった。そこで金田一耕助と小坂達三、坂巻潤子の三人はここまで泳いできたのである。三井参吾は一枝とともに遠まわりをして、貸しボート屋からボートを借りて、あとから駆けつけてきたのであった。 「どちらにしても!」  と、三井参吾がたまりかねたように金切り声を張りあげた。 「これはわたしの知ったことじゃない。その矢はたしかにわたしの矢だ。女もわたしのなじみの女だ。しかし……しかし……」  と、|咽喉仏《のどぼとけ》をビクビクさせながら、 「きのうここで男とふざけていた女がタマキだったとは思われない。それに、それに……」  と、三井参吾は別荘とむかいあった崖の一部をふるえる指でゆびさしながら、 「わたしの射た矢はたしかにこの崖に当たって水の上に落ちたのだ。わたしはハッキリそれを見たし、ホラ、そこに矢がぶちあたった跡もある!」 「三井! それじゃきみは……」  小坂達三はなにかいおうとしてそのままハタと口をつぐんだ。  そうでなくとも神経質そうな|頬《ほお》が、細かくヒクヒク|痙《けい》|攣《れん》していた。  小坂一枝と坂巻潤子はおびえたように三井参吾の顔を見ていた。     失われた矢 「金田一先生、あの洞窟でなにかあったんですか」  金田一耕助が水着のままもとの屋上へ帰ってくると、これまた水着のままの若い男女が、デッキ・チェアーにふんぞりかえって、勝手にアイス・ボックスから取り出したらしく、一本のジュースを二本のストローでのみあっていた。  男は三井参吾の絵の弟子で|山《やま》|本《もと》|新《しん》|一《いち》、女は|恭子《きょうこ》といって新一のガール・フレンドらしい。  この屋上は外部からでも直接あがってこれるようになっている。 「金田一先生」  女はストローに口をつけたまま|上《うわ》|眼《め》で笑って、 「こちらの先生、まさかこの弓であの洞窟めがけて、矢を射込んだんじゃないでしょうね」 「えっ?」  と、金田一耕助は鋭く恭子の顔を見て、 「あなたはどうしてそんなことを知ってるんです。三井さんがそんなことをやらかすかもしれないってことを」 「だって……」  と、ストローから顔をあげた男と女は、はっとしたように眼を見かわせて、 「金田一先生、なにか……?」 「いや、それはいいが山本君、きみたちは三井さんがそんなことをやるかもしれないってことをどうして知っていたんです」 「それゃ、こないだ三井さんご自身でおっしゃったんです。あの洞窟のなかで男と女がゴチャゴチャやるので眼ざわりでかなわない。こんどそんなことがあったら、この弓で|一《いっ》|矢《し》報いてやるんだって」  その弓はいまテーブルの上に放り出してある。 「山本君、この弓はどうしたんです」 「ナーニ、いまここへあがってきたら、このデッキ・チェアーの下に、ホラ、そのローブでくるんであったんです。そこでいま恭ちゃんと、先生、あの冗談をほんとに実行したんだろうかって話していたところなんですよ」 「それで、矢は……?」 「矢……?」 「そうです。このローブのなかにはこの弓のほかに一本の矢がくるんであったんだが」 「いえ、そんなものは見つかりませんでしたよ。恭ちゃん、そのローブちょっと取ってみてくんないか」  恭子がテーブルの下の|棚《たな》からローブを取りあげたが、矢はどこにも見当たらなかった。  さっき五人そろってここをおりていくとき矢は弓とともにこのローブにくるまれて、たしかにデッキ・チェアーの下に押しこまれていたのである。 「新ちゃん、あなたあたしがここへあがってきたとき、あの胸壁の上にこの弓を構えていたけど、そんとき海へむかってぶっ放したんじゃないの」 「とんでもない。おれはただ構えてみただけだよ。矢なんかどこにもなかったのさ」  もう一度あらためて屋上を|隅《すみ》から隅まで調べてみたが、矢はどこからも発見されなかった。 「金田一先生。あの洞窟になにか……?」 「いや、それよりも山本君、きみがあがってきたときこの屋上にだれか……?」 「いいえ、べつにだれも……|空《から》っぽでしたよ」 「きみたちここからおりていくだれかの姿を見なかった? 外側の階段でも内側の階段でも……」 「そうそう、そういえばぼくが外側の階段からあがってきたとき、お|喜《き》|美《み》ちゃんがあの階段……」  と、屋内へおりていく入り口を指さして、 「あそこをおりていくとこでした」  お喜美というのはここのお手伝いさんだ。 「金田一先生」  恭子は心配そうな顔色で、 「こちらの先生の射った矢で|怪《け》|我《が》人でも出たんですの。あそこの洞窟のボートのなかに女のひとが寝てるようですけれど……」 「山本君」  金田一耕助はそれには答えず、そっとローブに弓をつつんで、 「この弓はきみにあずける。警官が来たら渡してくれたまえ。ああ、それからぼくはもう一度あの洞窟へもどっていくから、きみたちここからあの洞窟を見張っていてください。だれか近づいたら、そこへは入らないようにと、ここから大声で叫んでくださいよ」 「金田一先生」  新一と恭子がおびえたように呼びかけるのをあとにして、金田一耕助は外部の階段を駆けおりた。崖下に|舫《もや》ってあるボートに乗って、もう一度人魚の洞窟へひきかえした。さいわい金田一耕助たちが立ち去ったあと、だれもこの洞窟へ入ってきたものはないらしく、死体はさっきのままの姿勢でボートのなかに横たわっている。  金田一耕助は先ほど三井が示した崖の傷を調べてみた。それはボートのなかに人間が立っていたとしても、頭上を越すこと一メートルくらい、たしかに|鏃《やじり》の傷と思われるのだが……そこから|跳《は》ねかえってきた矢が女の胸に突っ立ったのだろうか。ふかぶかと女の胸に突っ立っている矢からは、とてもそんなことは信じられないし、だいいちそんなことがあったらいっしょにいた男がただでおくはずがない。  それでは、三井参吾が|嘘《うそ》をついたのか。  金田一耕助はあらためて女の死体に眼をやった。さっきもいったとおり矢は左の乳房の右下のほうから突っ立っている。女がボートのなかで座っていたとして、あの展望台から射たとしたら、ぜったいにこんな角度で矢は突っ立たなかったであろう。  金田一耕助は女の死体をのっけているボートを動かして、女の顔があの展望台のほうへむくようにした。そうすれば乳の下のほうから矢の突っ立つことはありうるが、しかし、角度が少なすぎる。金田一耕助はボートをあちこち動かして、いろんな角度に女の死体をおいてみたが、あの展望台から射たのだとしたら、矢はぜったいにこんな角度では突っ立たなかったはずなのだ。展望台は高過ぎるし、矢の突っ立っている角度は低過ぎるのである。  それにしてももう一本の矢はどうしたのだろう。  さっき金田一耕助は望遠鏡でこの死体を見ると、まっさきにあの展望台をとびだした。あとから三井参吾と小坂夫妻、坂巻潤子の四人がひとかたまりになって、外側の階段をおりてきた。崖をくだってボート・ハウスへとびこんだのは、三井参吾がいちばんだったが、そこにボートがないのを知ると、貸しボート屋へ行ってくると、かれはまた崖をのぼっていった。金田一耕助が待ち切れなくて水へとびこむと、小坂達三と坂巻潤子がそれにつづいた。小坂一枝はそこに待っていたが、だいぶんあとから三井の|漕《こ》ぐボートに乗って駆けつけてきたのである。  この五人のなかのだれかが展望台へ引き返して、どこかへもう一本の矢をかくしたのであろうか。しかし、それはなんのために。なぜ矢をかくす必要があったのであろうか。  そこへ騒がしい声が聞こえて、洞窟の外へ二、三|艘《そう》のボートがやってきた。三井参吾が警官たちをつれてきたのである。     別荘の客たち 「この弓と矢はふだんどこにあったんですか」  |小《こ》|磯《いそ》警部補はまだ若かった。  この白浜海岸がひらかれてから|溺《でき》|死《し》事件や、またたまには、|喧《けん》|嘩《か》殺傷事件がないことはないが、このような奇怪な殺人事件ははじめてである。まだ若い小磯警部補がすっかり興奮しているのもむりはない。 「はあ、それはあの壁にいつもかけてあるんですが……」  そこはあの展望台から見下ろすアトリエの内部だが、このところすっかり仕事をなまけているそこは雑然乱然として、いかにも投げやりな三井参吾の、きょうこのごろの生活を現わしている。その壁の一部に弓をかける飾り|釘《くぎ》がうってあり、その下に矢が二本打ちちがいに掛けてあったらしい。そのちょうど下に飾り棚があり、そこに|花《か》|瓶《びん》だの黒ん坊の人形だの、ゴルフで獲得したらしいトロフィーだのが、これまた雑然乱然とおいてあり、花瓶にはダリヤの花がこぼれんばかりに|活《い》けてあった。 「三井さん」  と、そばから金田一耕助が口を出して、 「矢は何本あったんですか」 「二本だけです」 「その一本は花瓶のなかに落ちてたとおっしゃいましたね」 「ええ、そう、そうそう、きのうあの|悪《いた》|戯《ずら》をしてやろうと思って、あの壁から弓と矢を取ろうとしたら、矢が一本しか壁にかかっていないんです。そのときはハテどうしたかなと思ったくらいで、べつに気にもとめませんでした。ところがさっき泳ぎから帰ってきて、ふとあの洞窟を見ると……」  と、三井参吾が指さした窓から外を見ると、なるほどここからでも洞窟が見え、その洞窟のまえに野次馬のボートがいっぱい群がっているのが望まれる。 「若い男女をのっけたボートが洞窟の入り口をウロチョロしている。それでもう一度悪戯をしてやろうと思って矢を探すと、花瓶のなかに落っこちているのが見つかったってわけです」  そのときアトリエの|隅《すみ》にひかえていた女中のお喜美がなにかいいたそうにして、思いなおしたように口をつぐんだのを、金田一耕助だけが見のがさなかった。  そこには小坂夫妻や坂巻潤子、山本新一にガール・フレンドの恭子などそろっており、みんなおびえたような顔色で|鹿《しか》|爪《つめ》らしくひかえている。もちろんみんなシャワーを浴びて着替えていた。 「ときに坂巻さん、タマキさんがあなたの部屋へ置いてったって手紙、そこにお持ちですか」 「はあ、ここにございます」  潤子がハンドバッグより取り出したのは四つにたたんだ|便《びん》|箋《せん》で封筒もなかった。金田一耕助がまず眼を通して小磯警部補に渡した。 [#ここから2字下げ]  三井先生が来いとおっしゃいますから、また一晩泊まりで出かけます。あなたもあとからいらっしゃい。わたしは四時ごろまでにむこうへ行っています。ではのちほど。 [#地から2字上げ]タマキ [#ここから3字下げ]   潤子様 [#ここで字下げ終わり] 「この筆跡、タマキ君のにちがいありませんか」 「もちろんですわ」 「三井さん、あなたこの週末にタマキ君を招待したんですか」 「いいや、あらためて招待はしなかった。それゃ、まえの週末にやってきて別れるとき、また来たまえとは、外交辞令としていっといたが」 「それできのうからきょうにかけて、タマキ君には会ってないとおっしゃるんですね」 「はあ、会っておりません。さっき洞窟のなかであれ……いや、あのひとを見てびっくりしてしまったくらいですから」 「しかし……」  と、そのとき入ってきた刑事が三井参吾の言葉を聞きとがめたように、 「じゃ、これはどうしたんです。これ、被害者の衣類持ち物じゃないんですか」 「あら、それ、どこにございましたの」 「応接室の隅っこにおいてありましたよ。こちらへ着くとすぐ水着に着替えたんじゃないですか」  そこに若い女の着るような衣類一式、下着類までそろっており、ほかにハンドバッグと水着を入れてきたらしい小さなバッグまでそろっていた。  潤子は手早くそれをあらためて見て、 「これ、たしかにタマキさんのものにちがいございません。それじゃタマキさんはきのうやっぱりこの別荘へ……」  いいかけて潤子はハタと口をつぐんだ。三井参吾のものすさまじい眼に気がついたからである。 「お喜美さん、きみはその時分この家には?」 「はあ、あの、あたし、小坂先生ご夫婦がいらっしゃるというので、晩のお支度に町のほうへ出ていたものですから……」 「三井さん、運転手君はいないんですか」 「いや、運転手の|吉《よし》|井《い》はおとといの晩、東京へやったんです。小坂にその自動車を運転してこちらへ来てもらったんです」 「ああ、なるほど。小坂さん、あなたがこちらへお着きになったのは?」 「夕方の六時ごろだった。いや、六時半ごろだったかな。もちろん家内もいっしょでしたよ」  東京からここまで自動車で約二時間の距離である。 「坂巻さん、あなたは?」 「あたしは八時ごろでした。みなさんちょうどお夕飯をおすましになったところでした」 「山本君と恭子さんはけさでしたね」 「ええ、われわれは金田一先生がいらっしゃるより約一時間ほどまえでした」  金田一耕助がここへ来たのは正午ちょっとまえだった。みんなといっしょに食事をしたあと昼寝をした。そして、昼寝から起きたところでこの騒ぎになったのである。 「三井さん、あなたがきのう悪戯に矢を射かけられたのは何時ごろでした?」 「ちょうど四時ごろでしたよ。だが、天地神明に誓っていうが、その矢は崖に当たって水のなかへ落ちたのだ。いや、ひょっとするとボートの上へ落ちたのかもしれん。だから、あのときボートに乗ってたやつがその矢を拾って……」 「金田一先生」  と、そばから小磯警部補がうやうやしく、 「そのボートの男女を探してみる必要があるでしょうね。三井さんのお話をいちおう真実として……」  しかし、三井の話が真実としても果たして問題の男女が見つかるだろうか。三井もハッキリふたりの顔を見ていないというし、貸しボート屋ではいちいち身分姓名を聞いてから、ボートを貸し出すわけではない。むこうから名乗って出ることはまずあるまい。  そこへ別の刑事が凶器に使われた矢をもって入ってきた。 「犯行の時刻はだいたいきのうの午後四時前後だそうです」  するとタマキがこちらへ到着してすぐということになり、また三井参吾がいたずらに、矢を放ったとちょうど同じ時刻に当たっている。  金田一耕助は死体から抜きとられた矢を調べてみた。その|鏃《やじり》は鋭くとがって、これで心臓をえぐられたらひとたまりもないと思われる。金田一耕助は思わず身ぶるいした。     真 相 「ああ、三井さん、あのボートに乗ってるのは小坂さんご夫婦じゃありませんか」 「うむ、そうかね」  デッキ・チェアーによりかかった三井参吾は、すっかり意気消沈している。この男の持ちまえの陽気な楽天的|雰《ふん》|囲《い》|気《き》はけしとんで、ちょうど空気の抜けた風船みたいにしぼんでみえた。この別荘の客はみんな足止めされているのだが、三井参吾はおそらくゆうべひと晩のうちに、二キロくらいは体重が落ちたにちがいない。 「小坂さん、どうしたのかな。奥さんをのっけてズンズン沖へ|漕《こ》いでいきますよ」  金田一耕助はさっきから熱心に、胸壁の上から望遠鏡をのぞいている。  しかし、三井参吾は気のないふうで、 「大丈夫だろう。どうせふたりとも水着姿だから、逃げ出す心配はないだろう」  そういってからハッと気がついたふうで、 「もっとも、あのふたりに逃げ出す理由はなんにもないがね。じつはわたしも小坂からいっしょに乗っていかないかと誘われたんだが、あんたがぜったいにこの家をはなれちゃいかんというんで断わったんだ」  三井参吾はふと気がついたように金田一耕助をふりあおいで、 「金田一先生、いやに望遠鏡にご熱心だが、小坂夫婦がどうかしましたかな」  デッキ・チェアーの上で居ずまいをなおしたとき、女中のお喜美があがってきて、こっちへ近づいてくるのが見えた。  手に手紙のようなものを持っている。 「お喜美? だれから?」 「いいえ、小坂先生から金田一先生へ渡してほしいとおっしゃって……さっき金田一先生から小坂先生へお出しになったお手紙のご返事だそうで」 「金田一君、きみ、小坂に手紙を……?」  だが、金田一耕助はその質問には耳もかさず、急いで手紙の封を切ると食いいるように読みはじめた。その手紙こそ犯人の告白状も同じであった。 [#ここから1字下げ]  金田一耕助君。  この事件にきみが介在してこようとは夢にも思っていなかった。きみが介在してくると知ったら、私はもっと別の方法をとったろう。  そうなのだ。きみの推理したとおりタマキはこちらで殺されたのではない。東京で殺されて、自動車のトランクに詰めてこちらへ運んでこられたのだ。そして一昨夜、ひとの寝しずまったころ、ひそかにトランクのなかから運び出されたあげく、きみたちが目撃したような位置におかれた。  それをやったのはいうまでもなく私である。  動機は? 妻を奪われたこれがコキューの|復讐《ふくしゅう》なのだ。  三井は|可《か》|奈《な》さん(これが亡くなった三井の妻の名前であることはきみも知っていよう)の死後、ひそかに一枝と通じていた。いや、あるいは可奈さんの生前から関係があったのかもしれぬ。三井はそれをカモフラージュするために堀口タマキを利用していたのだ。  むろん、三井とタマキのあいだにも関係はあったのだろう。しかし、三井にとってはタマキはほんのアソビにすぎなかったにちがいない。あの男が女っ気なしに一年以上も過ごせるはずがないことを私はむかしからよく知っている。三井は私をあざむくためにタマキという女を利用していたにすぎない。あいつがほんとに|惚《ほ》れてるのは一枝なのだ。  このまえの週末に遊びにきたとき、私はタマキという女にはじめて会った。いや、正式に会ったのははじめてだったが、まえからあの女のことはひそかに知っていたのだ。そのとき三井はおろかにもあの洞窟の|逢《あい》|曳《び》きの話をし、こんどそういう男女を見つけたら矢を射かけてやるんだと放言した。私はそれから思いついて矢の一本を盗んで帰った。あの飾り棚の上はあんなにゴタゴタしているのだから、矢が一本紛失していても、気がつくことはなかろうとたかをくくっていたのだ。  その矢がタマキを突き殺した。そして、死体をこちらへ運んできて、おとといの夜……と、いうよりきのうの朝、あそこへ死体をボートにのっけて運んでいったが、そのときちょうど引き潮で、水は|膝《ひざ》の下くらいまでしかなかった。ボートをおいて帰ろうとしたとき、足にさわったのが第二の矢である。私は三井があの冗談を実行したことを知った。そこで、その矢を持って帰ると潮を洗い、ひそかに花瓶のなかへ入れておいたのだが、その直前にお喜美が花瓶の水を取りかえたとは気がつかなかった。  私の考えでは矢は一本しか紛失していない。したがってタマキを射殺したのは三井であると思わせたかったのだ。  きみが来ると知っていたら、私はおそらくこんな小細工はしなかったであろう。第二の矢をかくしたのは、そこから塩分が検出され、ひいてはおととい三井が使ったのはタマキの胸に突っ立っていた矢ではなく、花瓶のなかから発見された第二の矢であることに、きみが気がつくにちがいないと思ったからだ。  その矢はいま私の手もとにある。  私はこれから一枝といっしょにボートを|漕《こ》ぎ出す。そして三井をおとしいれようとしたこの矢で夫婦のあいだを清算するつもりである。  願わくば展望台の望遠鏡でわれわれ夫婦の最期のほどを見とどけてくれたまえ。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]小坂達三拝  あなやとばかりに金田一耕助は胸壁へ走った。  望遠鏡に眼を押しあてて海上を探し求めたが、ことはすでに終わっていた。  ふたつの死体をのっけたボートが波のまにまに浮かんでいた。  空には太陽がいっぱいである。    |蝙蝠男《こうもりおとこ》     恐怖の影  デスクの上の置時計は一時五分をさしている。十二時を過ぎると急に気温が下がったとみえて、さっき石油ストーブの|芯《しん》をいっぱい開いたはずなのに、背中のほうがゾクゾクするようである。毛布をまいているにもかかわらず、足の|爪《つま》|先《さき》から|膝頭《ひざがしら》へかけて寒さがジワジワと|這《は》いあがってくる。  それでいて頭だけがカッカッと燃えていて、|眠《ねむ》|気《け》は|微《み》|塵《じん》も感じなかった。置時計のせわしなく秒を刻む音が、がんばらなければ、がんばらなければと、|由《ゆ》|紀《き》|子《こ》の心をいらいらさせる。  大学の入試までにはあと|旬日《じゅんじつ》しかない。ほかの科目には自信もあり、担任の先生も折り紙をつけているが社会だけが|苦《にが》|手《て》なのだ。その苦手を克服しなければと、近ごろ毎晩おそくまでがんばっている由紀子である。  さっきから難問にぶつかっていらいらしながら鉛筆をかんでいた由紀子には、急に置時計の音が耳ざわりになってきた。 「ええい、うるさいわねえ」  由紀子はいまいましそうに置時計をにらんだ。思いきり表へたたきつけてやれば、どんなに気がせいせいするだろうと思った。じっさいそのときの由紀子は、そういう凶暴な振る舞いに及びかねない衝動にかられていた。  こんなとき由紀子はいつも自信喪失からくる、この上もない空虚感をおぼえるのだ。  由紀子は置時計をぶっつけるかわりに、デスクのひきだしから鏡を取り出した。鏡のなかの由紀子の眼は真っ赤に充血して、白眼の上を血の筋が網の目のように走っている。|頬《ほお》が燃えるようにほてっていて|唇《くちびる》がカサカサに乾いていた。それでいて背中や膝頭から下は水につかっているように寒気がする。  由紀子の寝室兼勉強部屋は間取りの関係上二階の北側にある。夏は涼しくてよかったけれど、真冬の寒さは石油ストーブひとつでは防ぎきれないほどきびしいのである。  由紀子は鏡のなかの自分を見て、これが十八の娘であろうかと|自嘲《じちょう》する。 〈なんて顔してるのよウ、あんたったら! こんなに|皺《しわ》がよって眼が落ちくぼんでさ。そいでいてあんたはなんにもできゃアしないんだ。国立をうけるなんてはじめっからむりよ。もっとやさしいインチキ大学うけたらどうなの。まあいやらしい顔!〉  しかし、それはそのときの由紀子の悲観的心境からくる|自虐《じぎゃく》趣味で、じっさいの由紀子は頭のよい、なかなかきれいな娘である。  そのとき階段の下から母の声が聞こえた。 「由紀子、まだお勉強……?」  由紀子が返事をせずにいると、 「由紀子、うたた寝してるんじゃ……」  と、あがってきそうにするので、 「いいえ、ママ、起きてるわよ」 「そう、それならいいけど。そろそろお休みなさい。もう一時じゃない?」  デスクの時計は一時五分をさしていた。 「ええ、あたしもそう思ってたとこなの。もう寝るわ。ママ、心配しないで」 「そう、じゃ、お休みなさい」  |襖《ふすま》のしまる音がして、父と母とがふたこと三こと言葉をかわす声がした。  あとから思えばそのとき由紀子はそのまま寝てしまえばよかったのである。|椅《い》|子《す》の背には寝床がのべてあり、湯タンポもぬくぬくと暖まっているはずだった。ところがもう一度難問に眼を走らせたとき、霊感みたいなものが由紀子の頭にひらめいた。 〈なあんだ、そんなことだったのか〉  由紀子の思考はまちがった袋小路をさまよっていたのだ。観点をかえてもう一度その問題を読みなおしたとき、それは由紀子にとってそれほど難しい問題ではなかった。  由紀子の心は急に明るく幸福になった。その問題に関連してつまずいていた他のふたつの問題もこんどは難なく解けそうだった。その三つの問題に七分ほどついやしたあと、ほっと顔をあげたとき由紀子の眼は明るくかがやき、さっきのあの|捨《す》て|鉢《ばち》な色は影をひそめていた。  由紀子はもう一度ノートに眼を落としたが、その唇から満足そうな微笑がこぼれていた。  由紀子はバターンとノートを閉じると、デスクの上を片づけはじめたが、そのとき気がついたのは、部屋のなかにいやな|油《ゆ》|煙《えん》の|臭《にお》いが立ちこめていることである。由紀子の使っている石油ストーブはあまり調子がよくなくて、どうかすると燃焼が完全でない場合がある。  由紀子はデスクの上に身を乗り出し、カーテンを開き、ガラス戸をあけ放った。そのとたん由紀子はあれを見たのであった。  由紀子の家は南へ傾斜した丘の|麓《ふもと》に建っている。もとこの丘の南斜面はいちめんの雑木林にうずもれていて、幼い由紀子のよい遊び場所になっていた。ところが五年ほどまえこの雑木林が無残に|伐《き》りひらかれて、そこに三階建ての中級アパートが建った。そのアパートは由紀子の窓から十数メートル前方にあり、その南面が由紀子の視界を殺風景にさえぎって、幼い少女を悲しませた。  その夜由紀子が部屋の換気を行なおうと、窓のガラス戸を開いたとき、アパートの窓という窓は|灯《あか》りが消えていた。ただひとつ、由紀子の窓と真正面に当たっている二階の窓を除いては。しかも、その二階の窓というのが、じつは、由紀子のような女学生にとってはタブーになっている問題の窓なのだ。  |日《にち》|月《げつ》|荘《そう》と命名されたそのアパートにはいろんな人が住んでいるが、いま問題になっている二階のその一室はよく住人が変わった。  いま住んでいるその部屋のぬしは去年の夏そこへ引っ越してきたのだが、由紀子のような娘には正体の|捕《ほ》|捉《そく》しにくい種類の女であった。  ときどき前庭を散歩しているのを見かけるが、姿のよいきれいな人であった。それでいて由紀子が不思議でならなかったのは、その女がひとり住まいらしいということである。  由紀子もそろそろ大学という年ごろである。おとなの世界というものに興味を持ちはじめるのもやむをえない年齢だった。  ああいうひとを二号さんというのかと思うのだが、それにしてはパトロンらしいのが見当たらなかった。泊まっていくのか、ただ遊びにくるだけなのかわからないが、いろんな男がやってくる。しかも、その男たちはだれはばかるふうもなく、自由奔放に振る舞っている。  その女が引っ越してきたのは東京がまだ猛烈に暑い季節であった。窓をあけっ放しにしているのはその部屋にかぎったことではなかったが、そこからのぞく男の顔がしょっちゅうちがっていることに由紀子は気づいた。日月荘の南の庭にはあかあかと外燈がついているので、光を背にした窓の顔でも由紀子の部屋からかなりハッキリ見えるのである。  その女が引っ越してきてから半月ほどのちのことだから九月のはじめだったろう。残暑のきびしいころだったから、むろんどの窓もあいていたし由紀子の窓もあいていた。  夜の十一時ごろ由紀子が勉強に疲れた眼をあげて、なにげなくむこうを見ると、男がひとり窓によりかかって外を見ていた。  こういうアパートの常として窓は広く取ってある。腰の高さくらいのところから張り出し窓になっており、張り出し窓のふちに一メートル足らずの高さの|鉄《てっ》|柵《さく》がついている。男は立ってその鉄柵に両手を突っ張り下を見ていた。男は腰にタオルをまきつけただけで上半身はたくましい裸であった。広くて厚い男の胸は|熊《くま》のような胸毛でぐっしょりおおわれていた。  由紀子が思わず|呼《い》|吸《き》をのんだとき、部屋のなかからだれかが呼んだとみえて、男は鉄柵から手をはなしてむこうをむいた。壁のように広い(と、いうのがそのときの由紀子のうけた印象だったが)男の裸の背中がこちらをむいたが、その男の太い首にあらわな女の腕がまきついたと思った瞬間、男の背中やうしろ|頭《がしら》は、首にまきついた女の腕とともに、つんのめるように由紀子の視界から消えうせた。  由紀子はそっとガラス戸をしめカーテンを引くと、しばらく呼吸をこらえて、いま見たものを脳裏に再現していた。あの急激な動作からして男と女は折り重なって畳の上に倒れたにちがいない……。  由紀子はそれに似た光景をその後二、三度目撃した。男と女が肩を組んで鉄柵の上から下をのぞいていたが、突然男が立ってうしろから、鉄柵を握っている女の体をむしり取るように抱きあげたかと思うと、あっというまに由紀子の視界から消え去った。そのときも男の上半身はたくましく露出していたが、まえに見た胸毛の男とはちがっていた。  由紀子の成績が落ちはじめたのはそのころからである。由紀子はつとめてそちらを見まいとするのだが、体内に宿る好奇心という邪悪なイキモノが、どうかするとその窓へ由紀子の視線をひきずっていくのである。  しかし、やがて涼風が立ちはじめ、暖房器具の必要となる季節になるに及んで、由紀子はやっとこのような勉強のさまたげとなる見世物から解放されることができた。  むろん窓のカーテンにうつし出されるあやしい影が、由紀子の空想をそそることはあったが、それはあけっぴろげた暑い季節にくりひろげられた見世物ほど刺激的ではなかった。由紀子はすぐにそれらの影から眼をはなし、自分のはしたない好奇心から自分を守るように訓練ができた。当然由紀子の成績はまた上昇しはじめていた。  だが、その夜、二月十八日の未明一時ごろ、問題の窓のカーテンにうつし出された奇妙な影は、由紀子の視線をとらえてはなさぬ一種異様なものをもっていた。  それは|蝙《こう》|蝠《もり》のように羽根をひろげて立つ男の影だった。それがなぜ男だとわかったかというと、シルク・ハットをかぶっていたからである。由紀子もシルク・ハットは知っていた。しかしインバネスというものを知らなかった。  そのとき由紀子が見た影はインバネスを着ていたのだろうが、由紀子にはそれが途方もなく|巨《おお》きな蝙蝠のように見えたのである。ほかの窓がみな真っ暗だっただけに、|煌《こう》|々《こう》と灯りのついたこの窓は、よりいっそう強く由紀子の視線を|惹《ひ》きつけずにはいなかった。  大蝙蝠は羽根をひろげてバタバタ振った。それが由紀子の眼には巨大な怪獣が怒りに身をふるわせているように見え、恐ろしさにかえって眼をそらすことができなかった。由紀子はあわてて電気スタンドの灯を消すと、カーテンの陰から|瞳《ひとみ》をこらした。  巨大な蝙蝠はなにかをつかまえようとするかのように、片っ方の羽根をのばしたかと思うと、一瞬、由紀子の視界から消えうせた。と、思うと|間《かん》|髪《はつ》をいれずカーテンのなかに現われたのは髪振り乱した女の影だった。女は|袖《そで》なしのネグリジェみたいなものを着ているらしい。裸の両腕をまえにのばして、首を左右に振っているところをみると、男の要求をこばんでいるのか、それともなにかを訴えているのだろうか。  男がその手をとって引きよせたらしく、女の影はつんのめるようにしてカーテンの外へはみ出した。と思うと、まもなくカーテンのなかへ現われたのは巨大な蝙蝠男である。しかも男の腕に女が抱きすくめられているらしいのを見ると、由紀子は思わず呼吸をのんだ。  蝙蝠男は片手に女を抱きすくめ、片手をさっと振りあげた。振りあげた男の手に短刀のようなものが握られている。蝙蝠の羽根がさっとはばたいたかと思うと、短刀は女の胸に振りおろされ、薄桃色をしたカーテンにさっと血の|飛《ひ》|沫《まつ》が散るのが見えた。 「…………」  由紀子は声にならぬ悲鳴をあげると、ひしとばかりにカーテンのはしを握りしめていた。  由紀子の心臓ははげしく波打ち、全身の|肌《はだ》からぐっしょりと冷たい汗が吹き出した。由紀子はいまにもくずれそうになる体を、|辛《かろ》うじてデスクの角で支えながら、しかもその窓から視線をそらすことができなかった。  女の体が倒れていくにしたがって、蝙蝠男の影もカーテンの底へ沈んでいった。しばらくして起きなおった蝙蝠男の影が、まえよりだいぶん小さくなったのは、実体が光源より遠くなったせいだろう。と、いうことは蝙蝠男がカーテンの|隙《すき》より外をのぞいているのだ。  由紀子の心臓はまた早鐘を打つように鳴り出した。  電気スタンドを消しておいてよかった。相手はこの窓のあいているのに気がついたであろうか……。  由紀子の全身はまた汗びっしょりである。  蝙蝠男は約三十秒、カーテンの隙から外をのぞいていたが、やがてその影が窓をはなれ、しだいに大きく拡大され、やがて天井までとどくかと思われたとき、突然室内の電気が消えて、窓はなにごともなかったように真っ暗になった。  由紀子はしかしまだこちらの窓をしめるのが怖かった。蝙蝠男はまだあの|暗《くら》|闇《やみ》のなかにいて、そっとこちらを見ているのではないか。窓をしめたらその音で、自分が見ていたことに気づくのではないか。  さいわい由紀子の置時計は夜光製になっている。時間は一時二十分。  由紀子はそれから十五分待った。その間かたときもむこうの窓から眼をはなさなかった。寒さと恐怖にガタガタふるえながら、由紀子は用心ぶかく十五分待っていた。  そして、その間なにごとも起こらないのをたしかめてから、由紀子はしずかに窓をしめた。     金田一耕助  その晩由紀子は悪夢にうなされ通しだった。  とろとろとまどろんだかと思うと、夢のなかに蝙蝠男が出てきて由紀子をおびやかした。夢のなかに出てくる蝙蝠男はシルク・ハットをかぶっていた。胴がなくて首から羽根が生えていた。顔はあの胸毛の男だったり、もうひとりの男だったり、また第三の男だったりした。由紀子はあの窓でいろんな男の顔を見ているので、それらの顔が入れかわり立ちかわり蝙蝠男の首にくっついていた。  明け方ごろ夢のなかに出てきた蝙蝠男の顔は胸毛の男だった。胸毛の男はニヤニヤ笑いながら、ヒラヒラ羽根を動かして、由紀子の顔の上をからかうようにして飛び|交《か》うのである。由紀子は顔を動かそうとするのだが、首が|膠《にかわ》づけにされたように|強《こわ》|張《ば》って動かなかった。  さんざん由紀子の顔の上を飛び交ったあげく、とうとう顔の上へ来てとまった蝙蝠男の顔は、いつのまにやらもうひとりの男になっていた。  蝙蝠の羽根にぴったりと鼻と口とをふさがれて、由紀子は|呼《い》|吸《き》がつまりそうだった。首を振ろうとしても動かないし、声を立てようとしても|咽《の》|喉《ど》がふさがって声も出ない。由紀子がさんざんもがいていると、 「由紀子、どうしたの。眼をさましなさい。由紀子、由紀子……」  母の声にゆり起こされてハッと眼をさましたとき、由紀子の全身の肌はまるで水につかったようにぐっしょり汗にぬれていた。 「ああ、ママ……」  由紀子はあわててあたりを見まわしたが、蝙蝠はどこにも飛んでいなかった。 「あなたお勉強に疲れてるのね。ゆうべは夜っぴてうなされてたじゃない。ママ、|階《し》|下《た》から二度も呼んであげたのよ」 「すみません。ママ、何時?」 「もう七時よ。学校へ行くのならそろそろ起きなきゃ……それともきょう一日くらい休んだらどう? まあ、このひどい汗」  由紀子はほんとのところは休みたかった。  しかし、ほんのり明るんでいる北側の窓を見ると、急に恐怖がこみあげてきた。  いつもとちがった行動を見せてはいけない。いつもと同じにしていなければならない。かりにも蝙蝠男の疑惑を招くような態度は避けなければならない……。 「いいえ、ママ、大丈夫よ」  由紀子はわざと元気よく起きなおると、 「パパは……?」 「パパはもうお出かけ。パパもゆうべあんまりあなたがうなされるもんだから、きょう一日くらい休ませたらどうかって」  由紀子の父の|原《はら》|田《だ》|裕《ゆう》|吉《きち》は丸の内の証券会社へ勤めているのだが、近ごろの交通地獄にそなえて通勤に一時間は見ておかねばならない。由紀子の家は|目《め》|黒《ぐろ》の緑ケ丘にあるのだ。 「いいえ、大丈夫よ。ゆうべちょっとお勉強につまずいたもんだからそれが気になったんでしょうよ。でも、もう解けたんだからいいの」 「そうね。いまがいちばんだいじなときだから……じゃ、ママは先に降りてますから」  母が降りていったあと、由紀子は手早く身のまわりをととのえ、学校用品をそろえてから、しばらくデスクのまえに立って窓のカーテンをにらんでいた。  窓を開いてみようかみまいか、もしゆうべのことがほんとうなら、窓のカーテンに血の飛沫が残っているはずなのだが……。 「由紀子、学校へ行くんなら早く降りていらっしゃい。オミオツケが冷めてしまいますよ」 「ハーイ」  とうとう由紀子は窓の外を見る機会をのがした。  由紀子が学校へ行ってみようと考えたにはもうひとつ理由がある。|小《お》|川《がわ》|豊《とよ》|子《こ》という少女が日月荘から同じ高校へ通っている。一年下だからこれという交際もなく、家庭的にも往来はなかったが、電車のなかなどでいっしょになると、言葉くらいは交わす仲である。  由紀子はまえから小川豊子にあの部屋のぬしについて聞いてみようかとも思ったのだが、ああいうふしだらな女に関心をもっているのかと思われるのが恥ずかしくて、いままで聞けずにいたのである。きょうもし電車でいっしょになったらと思って出かけてきたのだが、いつもよりだいぶん時間がおくれているので小川豊子には会えなかった。  その日一日学校で小川豊子を探したが見つからなかったり、あいにく見つかっても連れがあったりで、とうとう口をきく機会はなかった。  近ごろ由紀子は放課後学校へ残って補習教育をうけているので、家へ帰るのはいつも六時過ぎになる。二階へあがるとそっと北側の窓を開いて外を見たが、もうあたりは真っ暗だったし、外燈もまだついてはおらず、例の部屋も灯りが消えていたので、カーテンにシミがついているかどうかわからなかった。  それから一時間ののち外燈がついた様子なので、由紀子はまたそっと細目に窓をあけてみたが、光線のかげんでよくわからなかった。あの部屋に灯りがつけばわかるのだが、とうとうその晩は電気がつかずじまいだった。  そのことがまた由紀子を恐怖のどん底にたたきこんだ。  真っ暗な部屋のなかにネグリジェ一枚の女の死体が、血まみれになって横たわっている。蝙蝠男は帰るときドアに|鍵《かぎ》をかけて行ったにちがいないから、だれもそれに気がつかないのだ。それを知っているのは自分だけなのだ。それを黙っていてもよいのだろうか。  勉強が身に入らないことはいうまでもなく、その晩も由紀子はたびたびうなされた。 「由紀子、おまえ少しお勉強が過ぎるんじゃないか」  翌朝早く親子三人でちゃぶ台をかこんだとき、父の裕吉は心配そうに由紀子の顔をのぞきこんだ。 「ゆうべも三度もうなされたよ。ママがそのつど起こしに行ったのをおぼえてる?」 「ええ、すみません。でも、もうしばらくのことですから」 「そうだねえ。試験地獄とはよくいったもんだ。だけどあんまりむりをしないほうがいいよ。体あっての学校だからね」 「パパやママの時分もやっぱりこうだったんでしょう」 「いや、パパやママの時分はいまとは学校の制度がちがっていたが、ちょうど戦争の最中でね。べつの意味でたいへんだったが……」 「ママなんか学校へ行ったというだけのことで、ちっとも勉強できなかったわ。勤労奉仕、勤労奉仕でね。そこへいくと由紀子なんか仕合わせよ。もうちょっとだからがんばってね」 「だけど、むりはくれぐれも禁物だぜ」  こんな場合、母親より父親のほうが甘いのがふつうらしい。  それからまもなく母とともに父を送り出した由紀子は、二階へあがるとそっと北側の窓のほうにすりよった。きょうは恐れるところなく、あのカーテンをたしかめてみようと思ったのである。由紀子は細目に窓を開いた。  しかし、彼女はすぐに失望した。  |蝙《こう》|蝠《もり》男が外をのぞいたときカーテンが少したくれたのである。いや、わざとたくらしたのかもしれない。血の飛沫がとんだと思われるあたりには|襞《ひだ》ができていて、それがあの部分をかくしているのである。薄地のカーテンだから部屋のなかに灯りがついていれば、襞があっても黒い汚点がすけて見えたのだけれど、いまはたくみにかくされている。  由紀子の疑問はまたこうして疑問のうちに取り残された。  その日由紀子は、早めに家を出て電車の停留所で小川豊子を待ってみたが、時間ギリギリになっても豊子の姿は現われなかった。豊子はよくズル休みをする娘なので当てにはならなかった。果たしてその日学校で豊子の姿は見当たらなかった。  例によってその日も六時過ぎにうちへ帰ってくると、母の|美《み》|枝《え》|子《こ》が出迎えて、 「由紀子」  と、娘の顔をのぞきこむようにしたが、急に思いなおすようにして、 「いいえ、なんでもないわ。二階へ行って着替えていらっしゃい。もうすぐパパも帰っていらっしゃるでしょ」  いわでものことをいう母の顔を由紀子は見なおすようにした。母の顔はいくらかこわばっているように見えた。由紀子は思わずドキッとした。母が顔をそむけるようにするので、そのまま無言で二階へあがった。  二階へあがって北の窓を細目に開き、そっと外をのぞくに及んで由紀子はハッと胸をとどろかせた。母の顔色からもしやと思ったことがやっぱり当たっていたようだ。  問題の二階の部屋にはあかあかと電気がついているのみならず、窓もカーテンもあけっぴろげになっていた。そして、部屋のなかを行き来する警官らしい姿も見えた。  ああ、やっと死体が見つかったんだわ。……そう思うと由紀子はかえってホッとするような気持ちだった。なんだか肩の荷がおりたような心地でもあった。だが、つぎの瞬間、由紀子は|肚《はら》の底からこみあげてくる恐ろしさに、身ぶるいせずにはいられなかった。  それではやっぱりあの晩見たのは幻覚でもなく、また自分をからかうためのお芝居(由紀子はそう考えることによって、一時自分の恐怖をなだめようとしたことがあった)でもなかったのだ。じっさいに殺人が行なわれ、しかも自分はその現場を見てしまったのだ。  由紀子は呼吸をこらしてガラス戸の|隙《すき》|間《ま》から外をのぞいていたが、ふいにおやというふうに|瞳《ひとみ》をこらした。  そのとき窓の鉄柵へふたりの男が来て外を見ながらなにか語りあっていた。ひとりは長身のガッチリとした洋服の男だが、いまひとりは着物に|袴《はかま》をはき、しかも|袖《そで》のヒラヒラした妙な|外《がい》|套《とう》のようなものを肩からひっかけている。由紀子はその奇妙な外套にも心を奪われたのだが、それよりもその男の顔である。  外燈がついているので顔がハッキリ見えるのだが、もじゃもじゃ頭をしたその男は、ついこの近所の緑ケ丘荘というアパートに住んでいる男である。名前は|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》とかいって職業は私立|探《たん》|偵《てい》だとか……。  そのとき下から母の美枝子の呼び声がした。 「由紀子、降りていらっしゃい。パパがお帰りになりましたよ」     月曜日の客  由紀子の想像したとおり死体が発見されたのである。しかし、それは由紀子が考えていたような状態ではなく、もっとはるかに奇妙な状態のもとに発見されたのであった。  二月十九日の午後三時ごろ、金田一耕助が例によって例のごとく、|襟《えり》|垢《あか》のついた着物によれよれの袴、二重まわしといういでたちで、ひょっこり警視庁の第五調べ室、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部担当の部屋へ入っていくと、警部はいま|新《あら》|井《い》、|服《はっ》|部《とり》の両刑事をつれて、あわただしく外出しようとするところであった。 「あっ、金田一先生」  新井刑事は驚いたように金田一耕助の顔を見なおして、 「先生、なにかこんどの事件について……?」 「えっ、な、なんのことですか」  |鳩《はと》が豆鉄砲でも食ったように眼をパチクリさせている金田一耕助の顔を見て、等々力警部はニヤリと笑った。 「先生、あんた白ばっくれてるんですか。それともなんにもご存じなく偶然ここへとびこんでおいでなすったと……?」 「そ、そりゃそうですよ。ぼく、ちょっと警部さんにお尋ねしたいことがあって……」 「あっはっは、そうすると金田一先生の|嗅覚《きゅうかく》はよっぽど鋭敏とみえますな。不思議に事件を|嗅《か》ぎつけていらっしゃるじゃありませんか」 「な、なんのこってす、そりゃ……」 「まあまあいいからいっしょにいらっしゃい。ひょっとすると事件は、先生のお|膝《ひざ》|下《もと》で起こったのかもしれない」 「事件ってどんな事件です」 「トランク詰めの死美人……と、いやァ平凡ですがね、その死美人というのがどうやら緑ケ丘町の住人らしいんです」 「えっ?」 「と、聞きゃ先生もまさかスッポかすわけにもいきますまい。さあ、いっしょに来たり来たり」  これでは|否《いや》も|応《おう》もない。むりやりに|拉《らつ》し去られるごとく自動車のなかへ押しこまれた金田一耕助が、それから約四十分ののち連れてこられたのは、赤坂のナイト・クラブ、ローズマリーの楽屋であった。  ナイト・クラブにショーはつきものだし、ローズマリーは一流だからよく外国の芸能人などもやってくる。したがって楽屋なども一流の劇場なみに整備されている。金田一耕助が等々力警部とともに案内されたのは、その楽屋のなかの個室であった。 「やあ、警部さん、いらっしゃい。さあさあどうぞこちらへ」  先着していた所轄の表町署の捜査主任|田《た》|畑《ばた》警部補に迎えられてなかへ入ると、そこは外国のテレビ映画などに出てくる楽屋と同じような構えの、小ざっぱりした洋間だった。 「これが問題のトランクなんですがね。警部さんがすぐいらっしゃるというので、発見されたときのままにしておきました」  それはトランクというよりシナ鞄といった感じの、底の深い大きなもので、これならゆうに死体が収容できるだろう。そのなかにはきらびやかな衣装がいっぱい詰まっているが、衣装のなかから顔だけ出しているのはまだ若い女である。  年ごろは二十七、八というところか、恐怖にひきつった表情がそのままそこに凝結しており、皮膚はもう土色に変色しているが、これならば極まり文句の死美人という言葉を使っても、おかしくない器量である。 「死体をなかから出してみましょうか」 「写真撮影は終わったんだろうね」 「はあ、いまいろんな角度から|撮《と》っておきました。医者の検視もすんだところです」 「ああ、そう、しかし、もう少しこのままで話を聞こう。この死体を発見したのは?」 「ここの掃除婦なんですがね。二時ごろここへ掃除にやってきたところが、ホラ、このトランクの底が少しいたんで血が床へ流れておりましょう。これに気がついて支配人に報告したというわけです。支配人ならいまむこうに控えさせておりますが……」 「ああ、そう、じゃあとで直接話を聞こう。このトランクいつごろからここにあるんだね」 「きのうの夕方運送屋がここへ運んできたのを、支配人が受け取ってこの部屋へ運びこませたんだそうです。この女、リリー|梅《うめ》|本《もと》というストリッパーだそうですが、このトランクというのがこの女のものらしいんですね」  と、|蓋《ふた》をおろすとその一角に名刺ばさみがあり、そこにリリー梅本の名刺がはさんであった。 「ああ、そう。じゃひとつ死体を出してもらおうか」  トランクから引き出されたリリー梅本は|素《す》|肌《はだ》に薄桃色のネグリジェを着ただけだったが、その左の胸がぐっしょりとむごたらしい血に|濡《ぬ》れていた。なにか鋭利な刃物でえぐられたものらしいのである。 「殺害されたのは……?」 「死後三十数時間くらいだろうということですから、だいたいきのうの真夜中午前零時から午前三時ごろまでの犯行ではないかと医者はいっているんですが……」 「そうするとどこかほかで殺されて、このトランクに詰められて、ここへ運びこまれたということですね」  金田一耕助が言葉をはさんだ。 「そういうことになりますね。ちょっとこれをごらんください」  田畑警部補の指さしたのは、死体をネグリジェぐるみ包んでいる大きなビニールのシーツである。そのビニールの一部分にべっとりと|血《けっ》|痕《こん》がついている。 「このビニールで運搬中、血が大きく外へもれないようにくふうしたんですね。だからトランクのなかの衣装もわりに血に染まっていないんですね」 「ところで田畑君、この服装じゃベッドのなかへ入ってるところをやられたんだろうが、男と寝た気配は……?」 「いや、ところがそれがないんです。ここの支配人なんかも苦笑してましたが、殺害されたのが真夜中過ぎにもかかわらず、男とことを行なった形跡がないというのは、この女としては珍しいって」 「そんなに好きだったんですか、この女?」  新井刑事は苦笑しながらそこに横たわっている女の死体に眼をやった。ネグリジェに包まれているとはいえ、均整のとれたよい体をしている。 「ここの支配人なんかもまえに関係があったんだそうですが、あんまりしつこいんで|辟《へき》|易《えき》して手を切ったとかいってましたよ」 「よし、それじゃその支配人に会ってみよう」  支配人の部屋は楽屋のすぐ近くにある。その支配人室で一同を待っていた支配人の|坂《さか》|崎《ざき》|卓《たく》|造《ぞう》の顔をひとめ見たら、由紀子はそれを胸毛の男と知ったであろう。年齢は四十五、六、ぼってりと骨太の肉の厚い男である。 「やあ、どうも。とんだことができちまって……」  当惑そうにひそめる|眉《まゆ》は|達《だる》|磨《ま》のように太くて、|髭《ひげ》|剃《そ》りの跡のすごいほど青い男である。 「あなたあの女と以前関係がおありだったとか……」 「月曜日の客だったんですよ」 「月曜日の客というと?」 「いやねえ」  坂崎卓造は髭剃りの跡の濃い|唇《くちびる》をほころばせて苦笑しながら、 「あのリリー梅本というのはストリッパーとしちゃ一流で、体も抜群だし踊りのテクニックも悩殺的なんです。で、以前からもちょくちょくここへ出てもらってたんですが、性格からいうとじゃじゃ馬でしてね。去年の夏ごろ急にこんな商売がいやになった。引退したいから月曜日だけのパトロンになれっていうんです。で、ほかの日はどうするんだといったら、ほかの日はほかにパトロンを持つ。だから格安にしといてやるし、月曜日はぜったいおまえの好きなようになってやるっていうじゃありませんか。その考えかたが奇抜なのでついわたしもひと口乗ってしまったんです」 「で、ほかのパトロンというのは?」 「ほかにふたりいたようです。つまり月、水、金とパトロンがくる日なんですね。火、木、土と日曜、が休養日だというんですが。この休養日が当てにならないんで、いいかえてみれば本人の浮気デーみたいなもんらしいんです。それでよくこんな生活をしていてアパートから苦情が出ないもんだねえとからかったら、だれも泊めないからいいんだとうそぶいてましたっけ。そういえばわたしなども、十一時になるとさっさと部屋を追い出されたもんです」 「それで月にどのくらい払ってたんですか」 「三万円です」 「そうすると三人で九万円ですね」 「はあ、だけどあのアパート、部屋代だけでも月四万円だといってましたから、火、木、土と日曜日にも浮気かたがた適当にかせいでいたのかもしれません」 「それで、ほかのふたりのパトロンというのは?」 「さあ……」  と、言葉をにごすのを、 「こういうことは調べればいずれわかることですから、ご存じでしたらここでいってくださいませんか」  田畑警部補につっこまれて、 「いや、じつはあの娘がああいう奇抜な生活に入るまえ、三人のパトロンがあの娘に招待されたんです。おたがいに相手の領域を侵さないために紳士協定を結んでほしいっていうわけです。おひとりは銀座の宝飾店ナミノのご主人で|波《なみ》|野《の》|圭《けい》|市《いち》さん、このひとはちょくちょくこのお店へいらしてたんで、まえから存じあげておりました。もうおひとりは|上《うえ》|原《はら》産業の重役で|吉野隆吉《よしのりゅうきち》さん、三人とも似たりよったりの年ごろですけれどね」 「それであんたいつごろまでそんな関係だったんですか」 「わたしゃ八、九、十と|三《み》|月《つき》でおりましたよ。どうも少ししつっこいのに|辟《へき》|易《えき》したのと、それに三万円ではすみそうになくなってきたのと、それにはじめは好奇心も手伝って珍しかったんですが、おいおいバカらしくもなってきたもんですからね」  この肉の厚い見るからに精力的な坂崎卓造が辟易したとすると、リリーの体質はおよそケタはずれだったのだろうか。 「それでほかのおふたりはどうでしょうか。その後もつづいていたんでしょうか」 「いや、おいおいおりてしまったらしいんですよ。それでリリーのやつ、やっていけなくなるって、またここで使ってくれといってきたんです」 「ああ、そう。それじゃこんどの事件に直接関係のありそうなことを聞かせてください。あなたが最後にリリーに会われたのは?」 「リリーが殺害されたのは、きのう二月十八日の午前零時から三時ごろまでのことだそうですね。だとすると、わたしゃその数時間まえにここで会ってるわけです」 「ここへやってきたんですか」 「はあ、ショーの打ち合わせにね。そのときあした衣装トランクを運送屋に運びこませるから、受け取っておいてほしいって帰っていったんです」 「それは何時ごろ?」 「十一時ごろのことでした」 「失礼ですがあなたはそのあとどうしました」 「ここで徹夜をしたんです。新しいショーのリハーサルがあったもんですからね。リハーサルは明け方の五時ごろ終わりましたが、そのあとここでひと眠りしました。この部屋の隣に簡単なベッドがあるもんですから。じつはそのショーのあいだにリリーのストリップをはさむことになってたんで、残ったらどうかってすすめたんですが、|風《か》|邪《ぜ》ぎみで頭痛がすると、それに衣装もないから、あした衣装がとどいてからと帰っていったんです。そしたらきのうの夕方あのトランクがとどいたでしょう。それにしてもリリーのやつ大きなトランクを運びこんできたもんだ、いったいなにをやらかすつもりだろうと苦笑していたら……」  と、さすがに坂崎支配人は顔色をくもらせた。 「あなたは、しかし、あのトランクの重さに疑惑をお持ちになりませんでしたか」 「いや、わたしはべつに自分でトランクは持ちませんでしたから……しかし、ふたりの運送屋がウンウンいってるのを、なにを|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なと思ったことはたしかです」 「その運送屋というのは?」 「たぶん緑ケ丘の近所にあるんでしょう。受け取りにわたしがサインしたんですが、|丸《まる》|見《み》|屋《や》運送店とあったのをおぼえてます」 「金田一先生?」  等々力警部に尋ねられて、 「ええ、たしかにそういう運送店があります」  金田一耕助がうなずいた。 「そうすると犯行の現場は緑ケ丘の日月荘ということになりそうですが、なんだって犯人はそんな手数をかけて死体をここへ運ばせたんでしょうな」  金田一耕助もいまそれを考えていたところであった。     女流デザイナー  日月荘の二階にあるリリー梅本の部屋は十二号室になっている。  あらかじめ電話をかけておいたので、所轄の|碑《ひ》|文《もん》|谷《や》署から捜査主任、|波《なみ》|川《かわ》警部補が刑事をつれて先行していた。等々力警部が到着したときには、もう十二号室に灯がついていたが、波川警部補の案内でその部屋へ入ってみて、ここが殺人の現場にちがいないと思わずにはいられなかった。  南に面した八畳の間に派手な夜具が敷いてあり、その寝床はゆうべだれかが寝たように乱れていた。しかも、南の窓のカーテンやその下の畳に血の飛沫がとんでいる。 「ごらんのとおりです。警部さん、殺人はここで行なわれたにちがいありませんよ」 「それで、運送店のほうはどうだったね」 「それもさっきうちのもんをやって調べさせましたがね」  波川警部補は手帳を調べながら、 「きのうの午後丸見屋運送店へ電話がかかってきて、日月荘二階十二号室の玄関に大きなトランクがおいてある。それを赤坂表町のローズマリーというナイト・クラブへ運んでいってほしい。荷物は少し重いからふたりは人手がいるだろう。二千円でどうだといってきたんだそうです」 「それ、男なのかね。女なのかね」 「男の声だったそうです。しかし、いまから思えば明らかに、作り声だったようだと、その電話を聞いた係りのものはいっていたそうです。それで丸見屋でオーケーすると、じゃ、自分はこれから出かけていくが、廊下のドアはあけておく。ここは、廊下のドアはあけといても、玄関のドアの|鍵《かぎ》をかけとけば大丈夫なわけです。それからトランクの上に、二千円おいとくから夕方までにはまちがいなく、むこうへとどくようにってなんども念を押したというんです」 「丸見屋ではそのとおり取り計らったというんだね」 「はあ、多少風変わりな依頼だとは思ったが、べつにあやしいとは気がつかなかったそうで……」 「波川さん」  と、そばから口をはさんだのは金田一耕助。 「被害者は十一時半ごろここへ帰っているはずですが、だれかそれを見たものは……?」 「いや、いままでの聞き込みではまだそういう人物は現われておりませんが、帰ってきたことはまちがいありません。ちょっとこちらへ」  八畳の間のつぎは四畳半の洋間になっているが、そこにはオーバーや洋服や|靴《くつ》|下《した》、下着類などが乱雑に脱ぎすててある。 「被害者は一昨日の夕方、六時ごろここを出ていったんですが、そのとき出ていくのを見た人間がふたりいるんですが、たしかにこの洋服とオーバー姿だったといってます。靴も玄関の|下《げ》|駄《た》箱のなかにおさまってますよ」 「しかし、ここで殺人が行なわれたというのに、だれも気がつかなかったとは……?」 「ところで金田一先生、犯人はおあつらえむきの時期をねらったわけですよ。いま両隣とも空き部屋になってるんです。それにこのアパート、南側だけしか部屋がありませんからね」 「それに眠ってるところをぐさりとやられちゃあねえ」  等々力警部がつぶやいた。 「なるほど、そういえばそうですねえ」  金田一耕助は窓のそばへ寄って眼の下に見える|家《や》|並《な》みを見おろした。どの家もこちらに背をむけて建っているが、なかに一軒、こちらの窓とほぼ真正面にあたっている家だけ、北側に相当大きな窓が切ってあるのは、そこが人の住む部屋になっているのだろうか。  そこへ碑文谷署の刑事がひとり入ってきた。 「ああ、主任さん、一昨夜おそくこの廊下で、リリー梅本を見かけたという婦人がそこへ来てるんですが……」  刑事の背後につつましやかにひかえているのは、長身のすらりと姿のよい美人であった。年齢は三十前後だろう。 「わたくし|白《しら》|井《い》|克《かつ》|子《こ》と申しまして、ひとりでミシンを踏んで暮らしているものでございますが……」  と、彼女はひかえめに職業と姓名を名乗ったが、あとでわかったところによると、白井克子とは相当名の売れたデザイナーだった。 「はあ、なるほど、それで……?」  波川警部補が応答すると、 「わたし六本木のアザミという服飾店に所属しておりまして、三日に一度くらいそこへお仕事を|頂戴《ちょうだい》にあがるんでございますが、一昨夜お店からここへ帰ってまいりましたのが、ちょうど十一時四十分ごろでございました。わたしのお部屋はこのならびの階段を上がったとっつきでございますが、階段を上がってまいりますと、ちょうど梅本さんがこのお部屋へ入ろうとなさるところでした」 「それ、梅本さんにちがいなかったですか」  そばから言葉をはさんだのは金田一耕助である。白井克子は不思議そうに金田一耕助の|風《ふう》|采《さい》を見守りながら、 「はあ、それはもう……わたしの足音に気がついたとみえて、ふりかえってニッコリ|会釈《えしゃく》をなさると、そのままお部屋へお入りになりました」 「あなた、梅本とおつきあいが……」 「いいえ、おつきあいといってはべつに……ただ廊下や表でお眼にかかると、おたがいに会釈をかわすくらいのことで……ただこちらの刑事さんが、一昨夜梅本さんの姿を見たものはないかと、|訊《き》いてまわっていらっしゃるということを、いま外出先から帰ってきて、お隣の奥さまからうかがったものですから、ちょっとおとどけにまいっただけで……」 「いや、それはどうも……それじゃリリー梅本の私生活やなにかについてはご存じじゃありませんか」  横から切り出したのは等々力警部だ。 「いいえ、そのようなことはいっこうに。ただずいぶんおつきあいの広いかたとみえて、近ごろはそれほどではございませんが、|先《せん》には毎晩のようにお客さまがおありのようでございましたわね」 「それも男の客ばかりだったんじゃ……?」 「はあ、みなさんわたしの部屋のまえをお通りになるもんですから……」  白井克子はさすがに|頬《ほお》をあからめた。 「それでこのアパートの評判はどうだったんです。毎晩のように入れかわりたちかわり、ちがった男がやってくるような女に対して」 「さあ、べつに。こういうアパートでございますけれど、それぞれの部屋は独立しておりますから、おたがいに案外ひとさまのことに対して、無関心なんじゃございませんか。少なくともわたしはミシンを踏むのが忙しくて……」 「ああ、そう。それでほかになにか……?」 「いいえ、わたしはただ一昨夜、梅本さんの姿をお見受けしたということを申し上げようと思いまして……」 「いや、どうも、それはありがとうございました。それじゃまたなにか気づいたことがあったらお知らせください」 「承知いたしました」  白井克子が引きとったあとで、波川警部補は意気込んで、 「これで一昨夜の十一時四十分ごろまでは、リリー梅本が生きていたということがハッキリしてきましたね。そうすると犯行の現場はやっぱりここということになる。あとはリリー梅本の男出入りを調べるだけだ」  そんなことは|造《ぞう》|作《さ》ないといわんばかりの|口《くち》|吻《ぶ》りだったが、じっさいに捜査に乗りだしてみて、それがなかなかそうはたやすくいかぬことがわかってきた。  リリー梅本の三人のパトロンのうち、ローズマリーの支配人、坂崎卓造にアリバイのあることはいち早く判明していたが、ほかのふたりの波野圭市や吉野隆吉にも動かしがたいアリバイがあった。そのほかにもリリーは多くの男と関係を持ち、その生活は乱脈をきわめていたようだが、さりとて彼女に殺意をいだくような動機をもつものはひとりも発見されなかった。  ただ、捜査当局をして首をかしげさせたのは、リリーが非常に金づかいが荒かったことである。三人のパトロンから徴発していた金はしめて九万円にすぎない。リリーはそのほかにも多くの男と遊んでいたが、それらの男から金をまきあげた形跡は見当たらなかった。それにもかかわらずここ数か月のリリーの生活は月々十数万はかかっているはずである。  と、するとリリーはどこに財源をもっていたのであろうか。ひょっとするとリリーはだれかを|恐喝《きょうかつ》していたのではないか……。  捜査当局は|俄《が》|然《ぜん》緊張したが、さていったいだれを恐喝していたのか。恐喝するほうもされるほうも、よほどうまくかくしていたとみえて、捜査はそこでプッツリ線が切れてしまった。     影絵の意味  二月二十三日。——すなわち事件発生以来五日目のことである。金田一耕助は思いがけない人物の訪問をうけた。客は同じ緑ケ丘町に住む原田裕吉とひとり娘の由紀子であった。  原田裕吉は身分姓名を名乗ると、 「じつはこの由紀子に聞いたんですが、金田一先生はストリッパー殺しの捜査に関係していらっしゃるとか……?」 「はあ……?」  金田一耕助はハッとしたようにふたりの顔を見なおして、 「なにかあの事件について……?」 「はあ、じつはわたしどもの家というのが、あの日月荘のすぐ下にございまして、しかもこれの勉強部屋の窓が、ちょうどあの事件の起こった部屋の窓の少し下になっているものでございますから……」 「そ、それじゃお嬢さんはなにかごらんになったとでも……?」 「はあ、そのことなんですが、あらかじめ先生にお願い申し上げておきたいんですが、この娘はあと一週間ほどで大学の入試なんです」 「ああ、なるほど」 「ですから、ここでたびたび警察へ呼び出されたり、新聞社のひとたちに押しかけてこられたら、この娘はすっかり勉強のペースが狂ってしまうわけです」 「いや、そりゃごもっとも」 「と、いって知っていること、目撃した事実をそのまま胸にしまっておくということは、それまたこの娘としては勉強のペースを狂わすことになるらしいんです」 「なるほど、なるほど、よくわかりました」 「ですから、これからこの娘の申し上げることは、先生の胸三寸にしまっておいていただいて、もし、それが先生の推理になんらかのデータを提供したとしても、この娘の名前はぜったいに他へおもらしにならぬようにお願い申し上げたいんですが……」 「いや、よくわかりました」  金田一耕助はここ数日思い悩んですっかり面やつれしている由紀子の顔を、いたわるように見やりながら、 「いや、お嬢さん、いまお父さんのおっしゃったことはよくわかりましたよ。|小《お》|父《じ》さんはぜったいにひとにしゃべりません。だから安心して知ってることをここで話してください」  こういう場合、金田一耕助のあんまり目立たない|風《ふう》|采《さい》が、かえって相手にある種のやすらぎをあたえるらしいのである。由紀子はしばらくもじもじしていたが、やがてポツリポツリとあの夜の思い出を語りはじめた。  由紀子は記憶のよい娘である。しかもあの夜目撃した影絵の惨劇は、由紀子にとって|生涯《しょうがい》忘れられぬ強烈な印象となって残っている。彼女はじつに正確にあの夜の影絵の動きを、金田一耕助のまえに再現してみせた。  金田一耕助はひととおり話を聞き終わったのち、もう一度由紀子をうながして同じ話を繰りかえさせた。そして二度にわたるその話に寸分の狂いもないことをたしかめて、由紀子の物語の正確さを知った。 「そうすると、最初お嬢さんが窓を見たとき、そこにうつっていたのは|蝙《こう》|蝠《もり》のような男がひとりだけだったんですね」 「はい」 「ところがその男の影がひっこむと入れちがいに、髪ふり乱した女の影が現われた。そしてその女が両手をのばして、なにか男に頼むようにしていた。その手をとって男が引きよせたので、女の影がかくれてしまったんですね」 「はい」 「そのとき男の手や腕が影になって現われましたか」 「いえ、あの、差しのばした女のひとの手首から先は、もう窓の影からはみ出していたものですから……」 「なるほど、そしてこんど影になって現われたとき、男は女の体を抱いていたんですね」 「はい」 「女の影がかくれてから男と女の影が現われるまですぐでしたか」 「いえ、あの、ちょっと暇がかかりましたけれど……」 「そのとき女はどうしてました。男の腕に抱かれて、もがくとか叫ぶとか……」 「いいえ、それがちっとも……まるでお人形のようにじっとしていたんです。ですからあのとき女のひとはもう死んでたんじゃないかと思うんです」 「なるほど、なるほど。その女を蝙蝠男がぐさっと突いて、そのとたん、カーテンに血が散ったのが見えたんですね」 「はい」 「そのときも女の悲鳴は……?」 「聞こえませんでした」 「でも、そのとき女が悲鳴をあげたらお嬢さんに聞こえたはずだと思いませんか」 「はい。ですからあのとき女のひとはもう死んでたんじゃないかって気がするんです」  しかし、リリー梅本は鋭利な刃物のひと突きでえぐり殺されているのである。 「それから男はいったん女をそこへ寝かせて、窓からしばらく外をのぞいたのち、むこうのほうへ立ち去った。そして影が天井へつかえそうになったとき電気が消えたというんですね」 「はい」 「そのとき蝙蝠男の影は女の死体を抱いてるふうでしたか」 「いいえ、ひとりのようでした」 「そのあとお嬢さんは十五分間窓から眼をはなさなかったのに、むこうの部屋ではべつに変わったことは起こらなかったんですね」 「はい」  金田一耕助は無言でしばらく考え込んでいたが、やがてニッコリ由紀子にほほえみかけると、 「いや、お嬢さん、ありがとう、あなたはたいへんよいお話を聞かせてくださいましたよ。それじゃもう一度お約束しましょう、お嬢さんのお名前はぜったいに出さないということを。そのかわりお嬢さんももうこのことは忘れてしまいなさい。そして全力をあげて勉強に没頭なさるんですね。入学試験のご成功を祈ります」  それから二日ののち、すなわち二月二十五日の夕刊には、ストリッパー殺しの犯人が逮捕された旨が大きく報道されていた。  それは意外にもローズマリーの支配人坂崎卓造と、女流デザイナー白井克子の共犯だった。坂崎は日月荘へ出入りをしているうちに、いつか白井克子とねんごろになっていたのである。  リリー梅本はアパートで殺されたのではなかった。ローズマリーの支配人室のつぎの間の、ベッドのなかで坂崎によって殺害されたのである。したがって由紀子があの晩見た影は、白井克子がマヌカン相手に演じてみせたひとり芝居であった。むろん由紀子が見ていることがちゃんと計算に入っていたのだ。  白井克子はひそかにローズマリーからリリー梅本の着衣や|靴《くつ》のいっさいを持ち帰った。ビニール袋に入れてリリーの血の|若干《じゃっかん》もたずさえていた。そしてああいう影絵芝居を演じてみせたのだが、シルク・ハットをえらんだのは髪の形をかくすため、またインバネスを使ったのは、脱いだり着たりするのに簡単だったからである。  ローズマリーは麻薬密売の中継基地になっていたのをリリー梅本に感づかれて、坂崎支配人がゆすられていたのである。それにしても金田一耕助がなぜこのふたりに眼をつけたのか、それは金田一耕助のみが知る秘密となった。  由紀子は首尾よく大学入試に成功した。それから二日のち由紀子はりっぱな腕時計を贈られたが、贈りぬしに関してはただK・Kとしかわからなかった。    |薔《ば》|薇《ら》の別荘     女傑と女秘書 「|三《み》|枝《え》|子《こ》さん、今夜の会の用意は万事順調にすすんでおりましょうねえ」 「はい、マダム」 「お客さまはつごう何人になりますか」 「十一人さんでいらっしゃいます」 「それで、みなさまご出席のご返事をくだすったのでしょうねえ」 「はあ、けさまでに全部ご返事をちょうだいいたしました」 「ああ、そう。そうすると、あなたも入れて十二人ってことになりますわね」 「あら!」  と、驚いたように三枝子は女あるじの|吉《よし》|村《むら》|鶴《つる》|子《こ》をふりかえって、 「マダム、あたしも今夜の会へ出るんでございますの」 「そうですとも。あなたは今夜の会のスターですよ。ぜひとも出てもらわなければ困りますよ」 「だって、マダム……」 「だって……って、どうしたんですの」  と、鶴子はさっきから渋い微笑を口もとにうかべている。  三枝子はその微笑を見るとちょっと心が寒くなるのだ。この悪名高きマダムがそういう微笑を見せるとき、なにかしら悪意のある計画が、彼女の心中ではぐくまれていることを、三枝子はこの一年の経験で知っているのである。 「でも、今夜はご|親《しん》|戚《せき》さまがたの会でございましょう。そういう会へあたしどものような一使用人が出ましては」 「いいえ、親戚どもの会ですから、あなたに出てもらうのです」 「マダム、それはどういう意味ですか」 「今夜になればわかります。とにかくこれはあたしの命令ですから、ぜったいにそむくことは許しません。このあいだ作った衣装、あれを着て出てください」  三枝子はしばらくさぐるように鶴子の顔を見ていたが、ふいとよい口実が頭にうかんだ。 「マダムももちろんご出席なさるんでしょうねえ」 「それはもちろん」 「そうしますと、主客合わせて十三人ということになりますけれど、それでもよろしいのでございましょうか」 「あら、まあ、おっほっほ」  鶴子は、はじけるような笑い声をたてると、 「三枝子さん、あなたみたいな若いひとが、そんなこと気にやむなんておかしいわよ。まさか本気でそんなこといってるんじゃないでしょうねえ」 「はあ……」  と、三枝子が返事に窮してもじもじしていると、 「なにも心配することはないの。とにかくあたしのいうとおりにしてちょうだい。それにあたしはこのとおり体が不自由でしょう。だからあたしにかわってあなたに|女《ホ》|主《ス》|人《テ》|公《ス》の役をつとめていただこうと思ってるの」 「だって、マダム、あたしにはとてもそんなこと……」  三枝子はいよいよマダムの真意を捕らえかねた。  自分に関係の深い人物の気持ちが、よくわからないというのは、不安なものである。ことに相手が戦後派女傑のひとりといわれ、|権謀術策《けんぼうじゅつさく》にたけた婦人だけに、三枝子の不安も深刻なのである。  もっとも、三枝子が、吉村鶴子にいだいている不安は、いまにはじまったことではない。  |堀《ほり》|口《ぐち》三枝子が鎌倉にあるこの薔薇の別荘へ来てから、もうかれこれ一年になる。彼女の役目というのは、体の不自由な女あるじ吉村鶴子の付き添いだったが、いつかそのまめやかな性質が鶴子の気に入られたのか、私生活における秘書というような役目まで兼ねるようになっていた。  こうして三枝子は最初この別荘へ引きとられたころには、予想だにしなかった好遇と信頼を、このマダムからかちえているのだけれど、それでいていまだにこの女あるじの気心がよくのみこめず、それがしじゅう彼女の気持ちを不安にかりたてているのである。 「ああ、そうそう、ほっほっほ」  |車椅子《くるまいす》に身を横たえた鶴子は、しばらく無言のまま、思いまどう三枝子の顔を見つめていたが、急に思い出したようにいたずらっぽく笑うと、 「三枝子さん、あなたがほんとうに十三というかずを気にしているのなら、よいことを教えてあげましょう」 「よいことって?」  と、三枝子はまた不安そうな眼で、さぐるように鶴子の顔を見つめている。 「いいえね。ひょっとすると今夜の会に飛び入りのお客さまがあるかもしれないの」 「飛び入りのお客さまとおっしゃいますと、……?」 「いいえ、それ以上はいえないの。でも、そのひとがひょっとするとあなたの将来に重大な関係をもつかもしれないの。あたしとしてはそうなることが望ましいんですけれど……」  と、鶴子の|唇《くちびる》のはしにはあいかわらず、渋い、|謎《なぞ》のような微笑がうかんでいる。 「まあ、それ、いったいどういうかたですの」 「ほっほっほ、だからまだいえないといったでしょう。今夜を楽しみにして待っててちょうだい」 「でも……」  と、三枝子がなにかいいかけるのを、 「いいの、なにもいわなくてもいいの」  と、おっかぶせるようにいった鶴子の言葉は、いつもの命令するようなきびしい調子になっていた。それから彼女はふかぶかと車椅子のなかに身を埋めて、 「さあ、それじゃむこうへ行ってちょうだい。あたし、これからよく考えなきゃならないことがあるんだから」     吉村鶴子という女  堀口三枝子は不仕合わせな娘である。昭和八年生まれだというから、昔流にいうと二十六歳、満でかぞえて二十五歳である。  父を堀口|一《かず》|義《よし》、母を|節《せつ》|子《こ》といって、三枝子はこの夫婦のあいだに生まれたひとり娘だったが、彼女は父のことをよくおぼえていない。と、いって、父がそれほど早く亡くなったというわけではない。  一義が死亡したのは昭和二十年の春、東京の大空襲にやられたのだから、当時のかぞえかたでは、三枝子はもう十三歳になっていたはずである。それにもかかわらず三枝子が父のことをよくおぼえていないというのは、一義がほとんど家にいつかなかったからである。  一義には正妻の節子のほかに、数名の|妾《めかけ》とも愛人ともつかぬ女があったらしい。一義はそのほうを泊まり歩いて、めったに家へ帰ってくることはなかった。数名の妾だの愛人だのをもっているくらいだから、一義は相当金まわりがよかったはずだが、それにもかかわらず三枝子の記憶にある母は、いつもミシンをがらがらまわしてやつれていた。家も小っぽけな借家だった。  しかも、たまに家へ帰ってきても、父は母にも三枝子にも、ほとんどやさしい言葉はかけなかった。どうかすると母を踏んだり|蹴《け》ったりした。これはのちに母の姉になるひとから聞いたのだけれど、父は母と離婚したかったのだそうである。それを母が|頑《がん》としてきかなかったものだから、怒ってあれ狂っていたのだということである。  子供ごころに三枝子はこの父を憎いと思った。|伯《お》|母《ば》のごときもこの父を悪党と呼んでいた。いずれよい死にかたはできないであろうなどと放言していた。  それにもかかわらず母の節子が、この|放《ほう》|蕩《とう》|無《ぶ》|頼《らい》の悪党にたいして献身的な愛情をいだいているのが、子供の三枝子にもよくわかった。それはまだ十歳前後の子供でさえももどかしいほどの愛情だった。およそ|忍従《にんじゅう》という言葉は、母のために用意されていた言葉ではないかと、いまでも当時を思いだすたびに、三枝子は胸が熱くなるのである。  父の一義は好男子であった。  しかし、すさんだ生活からくるのか、伯母が悪党と呼ぶ性格的な欠陥からか、現在血を分けた娘の三枝子でさえもがなじめない、どこかどすぐろく邪悪なものを身につけていた。  それに反して母の節子はあくまでもやさしく美しかった。彼女はけっして父の悪口をいわず、伯母が父のことを|悪《あ》しざまにののしるような場合、いかにも心苦しそうに|溜《ため》|息《いき》をついていた。年も父のほうが母よりも十以上もうえだった。  伯母の説によると、母は父の甘言にだまされたのだそうである。父もはじめのうちは母を愛し、正式に結婚までしたのだけれど、すぐ母が鼻についてきたのであろうと伯母はいう。しかし、そのころすでに妊娠していた母は、生まれてくる子供のために父のいかなる迫害にも耐え、|生涯《しょうがい》を忍苦の生活にすごしたのである。  その父も、昭和二十年の大空襲のさい、赤坂にある妾のところで被爆して死んだ。そしてその翌々年、母の節子も病死した。節子の病気は明らかに過労からくるものであった。  こうして両親を失った三枝子は伯母のもとに引きとられたのだが、その伯母も昭和二十八年に亡くなったので、三枝子は義理ある伯父のところを出なければならなかった。  昭和三十年ごろから、三枝子は吉村鶴子の経営するキャバレー・ローズでダンサーをしていた。両親の血をひいて、|美《び》|貌《ぼう》にかけてはキャバレー・ローズでも、三枝子はナンバー・ワンにおされていたが、それでいて彼女はあまり|冴《さ》えない存在だった。こういう職業にとっていちばん必要な大胆さと奔放さが三枝子には欠けていた。そういう点三枝子は母の血をひいて、内気で引っ込み|思《じ》|案《あん》な娘であった。  まもなく彼女は恋をした。三枝子の恋の相手がどういう男であったか、それはこの物語に関係のないことだからここには割愛するが、結局、三枝子も母の二の舞を演じたのである。自分が全身全霊をかたむけて愛した男が、たんなる女たらしにすぎないことがわかったとき、三枝子は絶望のあまりアパートの一室でガス自殺をくわだてた。さいわい発見が早かったので一命はとりとめたが、病院へかつぎこまれたときはかなり重態だった。  新聞の|片《かた》|隅《すみ》に小さく報道されたこの記事を、キャバレー・ローズの経営者、吉村鶴子が見たのである。彼女ははじめて自分の経営するキャバレーに、堀口三枝子なる娘が働いていたことを知った。そして三枝子の回復するのを待って、北鎌倉の別荘に引きとったのである。  吉村鶴子は一種の女傑である。彼女は、昔、浅草にあった相当大きな洋酒問屋吉村家の長女に生まれ、妹がふたりあった。したがって、戦争中死亡した夫の|兼《けん》|次《じ》というのは養子であった。  兼次は養子によくあるタイプの能なしの意気地なしだったが、その|尻《しり》をひっぱたいて、一時家運のかたむいていた吉村家をもちなおしたのは、いつに鶴子の手腕にかかっているという。  ことに鶴子が|辣《らつ》|腕《わん》を発揮したのは戦後である。終戦のとき彼女はすでに四十をすぎていたといわれるが、その豊満な肉体はまだ三十代の初期の若さを保っていたといわれる。かてて加えて|美《び》|貌《ぼう》であった。いつ習いおぼえたのか鶴子はかなり上手に英語を話した。  いつか彼女はアメリカのバイヤーたちと接触をもち、しだいに地歩をきずいていった。そして、G・H・Qが引きあげたころには銀座でローズという大きなキャバレーの経営者におさまっていた。彼女が産をなしたのは洋酒のヤミによるものだといわれている。また、現在でも銀座のバーやキャバレーに流れているヤミの洋酒は、鶴子の手によって密輸されるのが大部分であるという風評がある。  鶴子は昭和三十年ごろからとかく健康がすぐれなかった。ひどい糖尿病がある上に、リューマチのために左脚がひきつって歩行も満足にできなくなった。リューマチはしだいに上半身にも移って、近ごろでは左手の自由も奪われている。糖尿病のほうはともかくとして、彼女がリューマチと称している病気のもとは、アメリカさんの|手《て》|垢《あか》によごれすぎたせいではないかと|陰《かげ》|口《ぐち》をきくものもある。真偽のほどはたしかではないが、戦争中に夫を失った鶴子が、戦後かなり無軌道な性生活をおくっていたのは事実のようだ。  だが、糖尿病とリューマチが彼女の奔放な性生活に終止符をうったらしい。三十年の秋ごろから、鶴子は北鎌倉の別荘に起居することが多くなった。たまに上京すると彼女はよく卒倒した。血液内の糖分が激増するためだといわれている。  上野|池《いけ》の|端《はた》にある本邸には、いま彼女のふたりの妹の忘れがたみ、|加《か》|藤《とう》|朝《あさ》|彦《ひこ》と|浅《あさ》|井《い》みゆきのいとこ同士が住んでおり、事業のほうは、鶴子の腹心の部下の、|杉本隆吉《すぎもとりゅうきち》という男が代行している。むろん、北鎌倉からいちいち指令が出ることはいうまでもない。  彼女の亡夫兼次は四人きょうだいの末っ子で、上に兄がひとり、姉がふたりあった。いちばん上が|戸《と》|田《だ》|辰《たつ》|蔵《ぞう》、ついで|古《ふる》|河《かわ》|達《たつ》|吉《きち》という男の妻になっている|幸《さち》|子《こ》、その下が|川辺良介《かわべりょうすけ》なる人物の妻の|千《ち》|代《よ》|子《こ》である。これらの|親《しん》|戚《せき》の連中が、戦後鶴子にぶらさがっていることはいうまでもなく、今夜はそういう親戚の集会なのである。  ちなみに鶴子には子供がなかった。  それにしても、そういう親戚たちの集会へ、どうして自分を出席させようというのだろうかと、それが三枝子の不安のたねなのである。     主客十三人  北鎌倉の別荘は鶴子が自慢で植えた色とりどりの薔薇のゆえに、付近のひとたちから、薔薇の別荘と呼ばれている。  昭和三十三年五月二十五日の夜、その薔薇の別荘へまずいちばんに駆けつけてきたのは、古河達吉とその妻の幸子であった。古河達吉は六十五、六、背が高く|因《いん》|業《ごう》そうに|堅《かた》|肥《ぶと》りした男で、|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》頭を短く刈って、|下唇《したくちびる》の厚い男である。この男は戦前陸軍大尉で中学校の体操の教師をしていたこともあるが、戦後はもっぱら義妹鶴子の指導で、ヤミ商売をやってきた。妻の幸子はみっともないほど肥えた、これまた欲の深そうな女である。 「お|峯《みね》さん、今夜は、いったいなんの会だね」  控えの応接室へ通されると、達吉がまず質問したのはそのことだった。 「さあ、わたくしもよく存じませんのですけれど……」  と、|小《こ》|森《もり》峯子が冷たい声で答えた。峯子は戦前から鶴子に仕えている女で、戦後鶴子がこの別荘を手に入れると、その管理をまかされているのである。 「で、ほかにどんな連中が来ることになってるの?」 「さあ、それもわたくしは存じません。近ごろはそういうこと、万事堀口さんがなさいますから」  と、峯子の声はあいかわらずひややかだった。三枝子が来てから女あるじの|寵《ちょう》をすっかりそちらへ奪われた小森峯子は、少なからずプライドを傷つけられているのである。 「それで、お鶴さんの様子はどうなの」 「はあ、さっきちょっとご気分がお悪かったようですけれど、滝先生がお見えになって、インシュリンの注射をおうちになったら、だいぶんよくおなりのようで……」 「じゃ、三枝子という娘が付き添っているのね」  と、幸子がいまいましそうに|眉《まゆ》をひそめたとき、戸田辰蔵と川辺良介のふた夫婦が到着した。 「やあ、兄さん、姉さん、今夜はいったいなにがあるんですな」  と、声をかけたのは辰蔵や幸子の|妹婿《いもうとむこ》川辺良介である。年は六十前後で、|達《だる》|磨《ま》大師のようにみずみずしく|肥《ふと》って、いかにも精力的な印象をひとにあたえる。頭はつるつるに|禿《は》げているが、|眉《まゆ》はこれまた達磨大師のように太い。戦後ひところ、自分の妻の弟の嫁にあたる鶴子ととかくの|噂《うわさ》のあった男で、|目《もっ》|下《か》は自分でも洋酒のヤミ取り引きをやっており、妾にバーを経営させている。妻の千代子も姉に似てよく肥っているが、このほうはいかにもひとがよさそうである。  幸子や千代子の兄の戸田辰蔵は、もと横山町の和紙問屋の|旦《だん》|那《な》だったが、戦後はすっかりいけなくなって、鶴子の仕送りで辛うじて食っている男である。ふたりの義弟とちがって、この男だけが和服に角帯をしめ、いかにも下町の旦那らしい|風《ふう》|采《さい》だが、一見いかにも生活力のなさそうな老人である。年は七十を越えているのであろうが、妹たちの肥満しているのに反して、このほうは|鶴《つる》のように|痩《や》せている。妻のやす子も夫と似たりよったりの女で、|数《じゅ》|珠《ず》でももたせておけば似合いそうである。 「それがなあ、良さん」  と、古河達吉が眉をひそめて、 「お峯さんにもわからんのじゃそうな。近ごろはもっぱら三枝子という小娘が、万事取りしきっているんでな」 「ああ、あの堀口三枝子という娘かな」  と、戸田辰蔵はのんきそうな調子で、 「ありゃ、なかなか利口そうな娘じゃないか。お鶴さんの気にいるのも、むりはないよ」 「兄さん、そんなのんきなこといってる場合じゃありませんよ。あの|娘《こ》、なんだか、……」と、達吉の妻の幸子が口を出しかけたとき、 「やあ、伯父さん、伯母さん、これはおそろいですな。いったい今夜はなにごとがあるんです」  と、威勢よく声をかけて入ってきたのは鶴子のすぐ下の妹の忘れがたみ加藤朝彦である。朝彦は二十六、七というところだろう。  伯母の鶴子に似て|美《び》|貌《ぼう》の青年だが、どこか|狡《ずる》そうな印象はかくしきれない。 「おや、まあ、これでは、まるで、親族会議ね」  朝彦といっしょに入ってきた鶴子の末の妹の忘れがたみ浅井みゆきも、応接室のなかを見わたすと、|軽《けい》|蔑《べつ》するように下唇をつきだした。みゆきは養子であった伯父の親戚をいつか軽蔑するくせがついていた。彼女は歌手として立つつもりだとやらで先生について勉強しているが、根がしんのない娘だから、果たしてものになるかどうかわからない。 「朝彦もみゆきも、今夜の会のことは知らんのかな」 「いいえ、いっこう。……伯母さんから招待状が来たからやってきたんでさあ……ああ、そうそう、きょう銀座の店へちょっと寄ってみたんですが、マネジャーの杉本さんも来るそうですよ」 「杉本が……?」  と、古河達吉は義弟の川辺良介のほうへちらと眼をやった。マネジャーの杉本隆吉もひところ、鶴子ととかくの|噂《うわさ》のあった男でいわば良介とは|恋敵《こいがたき》だが、達磨大師の良介はそんなことどこ吹く風とすましている。 「ええ、そう、ところが杉本さんもなんの用事かいっこう知らんというんです」 「ふうむ、すると……」  と、首をかしげたのは戸田辰蔵で、 「今夜の客はわれわれ三組の夫婦におまえたちふたり、それに杉本を入れて、つごう九人ということになるのかな」  と、その言葉も終わらぬうちに、三枝子に案内されて入ってきたふたりづれの男を見て、一同は思わず眼をみはった。  ひとりは八人も見知りごしの、鶴子の顧問弁護士|鍋《なべ》|井《い》|賢《けん》|蔵《ぞう》だが、もうひとりはえたいの知れぬ人物である。セルの|単《ひと》|衣《え》によれよれの|袴《はかま》をつけ、頭は雀の巣のようなもじゃもじゃ頭で、小柄で|貧《ひん》|相《そう》な男である。 「鍋井さん、あんたも今夜のお客?」  およそものに動じそうにない達磨大師の川辺良介も、弁護士の姿を見ると、思わず太い眉をひそめた。 「ええ、そう、あっはっは!」  と、ものなれた鍋井弁護士は、一同の驚きを|尻《しり》|眼《め》にかけて、 「いや、わしの出席にびっくりなすっちゃいけません。ここにもっと驚くべき人物がいらっしゃいましたよ」 「驚くべき人物というと……?」  古河達吉が鋭く言葉をはさんだ。 「いやね。いま門のところで出会ったんですが、こちら|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》先生、有名な私立|探《たん》|偵《てい》でいらっしゃる。やはり今夜の会に招待されていらっしゃったそうです」 「私立探偵……?」  と戸田辰蔵が|驚愕《きょうがく》したようにつぶやいて、 「お鶴さんはいったいなにを……?」 「おい、堀口君!」  とそのときもと陸軍大尉の古河達吉が疑い深そうな眼を三枝子の訪問着にむけて、 「おまえ、今日はいやにおめかししているが、今夜の会へ出るんじゃあるまいな」 「はあ、あの、それが……」  と、一同の視線に|射《い》すくめられたように三枝子は体を固くしたが、 「マダムがぜひ出るようにとおっしゃるもんですから」 「堀口さん」  と、そのときそばから言葉をはさんだのは、鶴子の|姪《めい》の浅井みゆきである。 「その訪問着どうしたの? 伯母さまに作ってもらったの?」 「あっはっは、みゆき、そんなお|下《げ》|劣《れつ》なこときくんじゃないよ。それより三枝ちゃん」  と達磨大師の川辺良介がなれなれしく、 「このほかにローズのマネジャーの杉本が来るというが、すると主客合わせて何人ということになるのかね」 「はあ、みんなで十三人でございます」  部屋の|一《いち》|隅《ぐう》に立って一同の顔を見まわしていた金田一耕助は、三枝子の言葉に思わずギョッと眼をみはったが、そこへ杉本隆吉が到着した。     影の人  北鎌倉の駅で下車した|児《こ》|玉《だま》|健《けん》は、改札口を出ると立ちどまって、自分の腕時計と駅の電気時計をくらべてみた。  駅の電気時計は七時十五分を示している。児玉は五分ほどおくれていた自分の腕時計の針を、電気時計に合わせてなおすと、なんとなく周囲を見まわした。しかし、だれもかれの存在に、注目しているものなどいない。  児玉も駅から外へ出たが、まだなんとなくためらいがちな顔色である。じっさいかれは自分がこれからとろうとしている行動にたいして自信がないのである。そして人間だれしも自信のない行動に、足を踏みこむというのはいやなものなのだ。  児玉健は駅から外へ出ると、しばらくそこに立って、眼のまえに迫っている鎌倉山の黒い姿を見つめていたが、なに思ったのかまた駅のなかへ引きかえして、待合室のベンチに腰をおろした。そして、そっとあたりを見まわすと、上衣の内ポケットから取り出したのは一通の手紙である。  手紙は横封になっているが、かなり上質の封筒である。封筒には渋谷にあるかれのアパートと、児玉健様という|宛《あて》|名《な》が邦文タイプでうってある。差出人の名前はない。封筒の内容も上質な|便《びん》|箋《せん》が使ってあるが、そこにはつぎのような奇怪な文句が、これまた邦文タイプで打ってあった。 [#ここから1字下げ]  児玉 健様。  貴君はこの書簡の内容を読んで、疑ったり迷ったりしてはなりません。貴君はこの書簡の命令どおり行動するのです。そして、そうすることによって貴君は、思いもよらぬこの世の幸福を享受することができるでしょう。  すなわち、貴君は今日以降、いままでの悪い仲間といっさい縁を切らねばなりません。もしかりそめにも関係のある女性などがあったら、このさい、断然手を切ってしまいなさい。そのために必要とあらば住居も変えねばなりません。  さて、貴君はこの書簡と同時にか、あるいはいくらかおくれて|若干《じゃっかん》の|金《きん》|子《す》を受け取るでしょう。貴君はその金子をもってただちに、少なくとも十日以内に、服装をととのえなければなりません。すなわちいかなるパーティへ出席しても恥ずかしからざる程度に、衣類、ならびに装身具等をととのえておかねばなりません。さて、それから……?  さて、それからの行動については、後日また書簡で指示します。書簡を疑ったり迷ったりしてはなりません。  五月十三日 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]影の人  児玉健はその手紙を封筒のなかにおさめると、上衣の内ポケットへしまいこんだが、そのかわりに取り出したのはもう一通の手紙である。  その手紙の封筒もまえと同じ種類のものが使われていて、そこには渋谷のアパートと児玉健の名前が邦文タイプで打ってある。あいかわらず差出人の名前はなかった。さて、内容はこうなのである。 [#ここから1字下げ]  児玉 健様。  貴君はまだこのアパートにいますね。ということは悪い仲間とまだ手が切れないということなのですか。それとも住居が変わったら、第二の指令が受け取れないとでも考えたのですか。それならば心配無用だったのに……。  それはさておき、ここに第二の指令を発します。すなわち、貴君は五月二十五日の夜七時、北鎌倉へ吉村鶴子という女性を訪ねなければなりません。北鎌倉で薔薇の別荘ときけばすぐわかります。  もし、貴君の服装がととのっているならば正面玄関から堂々と、もし貴君がこの書簡の発送人の期待を裏切って、先日受け取った金子を浪費したとしたら、裏口から、こっそりと吉村鶴子を訪れなさい。  どちらにしても貴君はこの書簡を信用しなければなりません。そして、この書簡の命ずるがままに行動しなければなりません。それこそ貴君が幸福なる世界に足を踏み入れることのできる唯一無二の|途《みち》であることを、深く|肝《きも》に銘じておきなさい。   五月二十三日 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]影の人  児玉健はその手紙を読み終わると、またそそくさとあたりを見まわした。そして、だれも自分を注視しているもののないのをたしかめてから、手紙をポケットにしまいこみ、それから腕時計と電気時計を見くらべた。ふたつの時計はいま七時三十分をさしている。  児玉健は、いまいましそうに|下唇《したくちびる》をつきだして、ちえっというようなつぶやきを吐きだした。どこか|拗《す》ねて、ひねくれたような態度である。  着ているものを見ても、かりそめにも「服装をととのえた」とは見えないのである。ギャバのズボンの|膝《ひざ》っ小僧がだらりとゆるんで、|靴《くつ》の|爪《つま》|先《さき》が少し割れている。|開《かい》|襟《きん》シャツの|襟《えり》もうすよごれて、ぶらさがりで買ったらしいギャバの上衣もすっかり形がくずれている。  児玉健は待合室のベンチにだらしなくもたれかかったまま、その眼にあわれなおのれの靴の爪さきをながめている。かれの胸にはいま淡い希望とにがにがしい悔恨が、複雑な|渦《うず》をまいているのである。  児玉健は昭和二十年の春、|江《こう》|東《とう》方面の大空襲で両親を失った。かぞえ年で十五歳だった。父は児玉|浜《はま》|吉《きち》といって大工だったが、|生涯《しょうがい》かかっても|棟梁《とうりょう》になれないようなしがない|叩《たた》き大工だった。母は|浅《あさ》|江《え》といって、もとどこかの女中をしていた女だという。  いつのころからか健は、自分がこの浜吉浅江夫婦のあいだに生まれた子供でなく、どこかからもらわれてきた子供だということを知っていたが、さて、実の両親がどういう人物なのか、それを打ち明けられるまえに、両親を戦災で失ったのである。  戦後はおきまりの戦災孤児である。  チャリンコからはじまって、戦後のこういう青少年の陥るあらゆる悪徳のなかを泳いだあげく、影の人からの第一回目の書簡を受け取ったのは、ちょうどブタ箱から出てきたばかりのことだった。一日おくれてとどいた現金書留には、手の切れるような五千円紙幣が二十枚入っていた。  児玉健は、まるで|狐《きつね》につままれたような気持ちだった。  しかし、影の人から送られてきた十万円というその金子が、贈呈主の希望どおりに消費されなかったことはいうまでもない。健のところへ現金書留がとどいたということは、すぐに同じアパートにいる悪い仲間に知れてしまった。十万円というその金子は、一週間ほどのうちに雲散霧消してしまった。  さすがに健もあの奇怪な影の人の書簡に関しては仲間のものにも話さなかった。だから悪い仲間の連中は、現金書留の差出人を追及して、あわよくばもっと多くの金をはき出させようと努力したが、影の人にもそのくらいの用意はあったとみえて、西銀座の郵便局から発送されたその書留の差出人の住所には、該当番地もなければ、そういう人物も見当たらなかった。  こうして健の疑惑と混迷のうちに十日すぎて、きょうかれは五月二十三日付の第二の書簡を受け取ったのである。  あいにくなことにはこの手紙がとどいたとき、かれはアパートにいなかった。夕方帰ってきて、この手紙に眼をとおしたとき、時刻はもう六時になんなんとしていた。一か|八《ばち》か、かれはこのギャンブルのようなえたいの知れぬ招待に応じてみようと、北鎌倉へ駆けつけてきたのだが、さて、いざとなるとかれのような男でも、やはりなんとなく気おくれがするらしい。  電気時計の針はいま七時四十五分を示している。かれはやっと駅の売店のほうへ近よっていった。 「ちょっとお尋ねしたいんですが、薔薇の別荘というのはどのへんでしょうか。吉村鶴子さんというひとのお宅なんですが」  かれはまだ吉村鶴子というのがどういう婦人なのか、それすらも知っていない。     法律上の問題 「いったい、マダムはどうしたんだろう。いつまでわれわれを待たす気かね」  キャバレー・ローズのマネジャー杉本隆吉が、いらいらしたような眼を腕時計に投げかけて、いまいましそうにつぶやいたのもむりはない。時間はもう八時になんなんとしているのである。 「あっはっは、またお鶴さんの気まぐれがはじまったようだが、あたしゃもうすっかり腹がへっちまったね」  と、和服に角帯の戸田辰蔵老人が、アームチェアーの両腕をなでながら、心細そうにつぶやいている。 「あなた、そんな浅ましいことを……」  と、夫を制する妻のやす子も、その実さっきから相当空腹をおぼえているのである。吉村鶴子は糖尿病患者にありがちな美食家である。だからやす子も、ご|馳《ち》|走《そう》を期待してうんと腹をへらせてきたのだ。 「杉本君」  と、|達《だる》|磨《ま》大師の川辺良介は、杉本隆吉をふりかえると、 「きみはほんとに今夜のこの会合の主旨を知らんのかね。このなかでは堀口三枝子君を除いちゃ、きみがいちばんお鶴さんと接触が濃いはずなんだが……」 「はあ、ところがそれがいっこうに……」  と、かつての恋敵の皮肉な視線を、まっこうからきりかえす杉本隆吉というこのマネジャーは、だいたい四十二、三というところだろう。身長は五尺六、七寸、胸も肩もがっちり厚く、いかにもボリュームを感じさせる体である。男振りも悪くなく、|髭《ひげ》を|剃《そ》った跡がまるで|青《せい》|黛《たい》をなすったように青々としている。  達磨大師の川辺良介といい、またこのマネジャーの杉本隆吉といい、かつて鶴子との仲をうんぬんされた男は、おおむねこういうタイプの精力型である。しかも肉体的にも精神的にも、どこか|頽《たい》|廃《はい》的な印象をひとにあたえる。そういう点では川辺良介の義兄にあたる古河達吉の、|因《いん》|業《ごう》タイプは落第だったのだろう。かれもまた、相当義妹の鶴子に気があって、妻の幸子をやきもきさせたということだが……。 「だいいち、わたしは、はじめ、今夜の客を、自分ひとりだと思っていたくらいですからね」 「ふうむ、そりゃまた大いにうぬぼれたものだね」  と、からかい顔の川辺にたいして、杉本はべつにいやな顔もせず、 「いや、わたしになにか折り入って頼みがあるというようなことでしたからね」 「それ、いつ聞いたの。招待状になにかそんなことが書き添えてあったの」  と、古河達吉が、不安そうにきいた。 「いや、きょうの午後、電話がかかってきたんです。今夜はきっと来てほしい。折り入って頼みたいことがあるからって。……そうそう、堀口君はおぼえているだろう。あんたがぼくを呼び出したんだから」 「はあ、おぼえております」  と、三枝子は蚊のなくような声である。  戦後派女傑のひとりといわれる吉村鶴子をさえ、食いものにしているかのごとき感のある、この|貪《どん》|婪《らん》な親族たちにとりかこまれた堀口三枝子は、まるで|禿《はげ》|鷹《たか》の群れのなかにいる|小雀《こすずめ》のようなものである。|蒼《あお》ざめた顔が固くこわばって、胸高にしめた訪問着の帯が、いかにも窮屈そうである。 「三枝ちゃん、お鶴さんはいったいなにをたくらんでいるんだい。こうして親戚の連中を招集してさあ。しかも、そこへおまえを出席させるかと思えば、弁護士を呼び、おまけに私立探偵を呼びよせる。これはいったいどうしたことだね」  達磨大師の川辺良介も、さすがに内心の不安はかくしきれず、げじげじのような|眉《まゆ》をひそめている。 「さあ、あたしもいっこうに……。だいいち、あたしがこの席へ出るなんてことも、きょうまで知らなかったくらいでございますから……それに……」  と、まぶしそうな眼をして金田一耕助の姿を|上《うわ》|眼《め》に見ると、 「金田一耕助さまとおっしゃるかたが、お見えになるということは存じておりましたけれど、そのかたが私立探偵でいらっしゃるとはいまのいままで……」 「鍋井さん、鍋井さん」  と、元陸軍大尉の古河達吉が、忙しそうに弁護士に呼びかけると、 「あんた、ご存じなんじゃろうなあ、今夜の会の主旨というのを……」 「はあ、それはだいたい見当がついておりますがね」  鍋井弁護士というのは五十二、三、健康そうに|陽《ひ》|焼《や》けした顔と、真っ白な頭髪が対照的である。温顔の|眼《め》|尻《じり》にいつもおだやかな微笑をたたえているような人物だが、|法《ほう》|曹《そう》界では|敏捷《びんしょう》さでとおっている。 「先生、それはいったいどういうんでございますの」  達吉の妻の幸子が詰問するような調子で小山のような|膝《ひざ》をゆるがせ出したが、 「いやあ、それはマダムの許可があるまでは申し上げるわけにはいきませんよ。まあもう少しの辛抱ですよ」 「先生、やはり法律上のことで……?」  と、これは古河達吉である。 「それはそうでしょうなあ。それがわたしの職務ですから」 「ところで、その職務に堀口三枝子君がなにか関係してるんですか」 「あっはっは、川辺さん、誘導尋問はいけませんよ。それにしてもマダムはどうしたのかな。いやにおそいが……堀口さん」 「はあ」 「あなた、迎えに行ってきたらどうです」 「はあ、でも、マダムは自分のほうから呼ぶまでは、ぜったいにだれも来てはならぬと、きびしいお言いつけでございましたから……」 「それ、何時ごろのこと?」 「ちょうど六時ごろのことでした。その時分みなさんがボツボツお見えになりましたので、マダムのお言いつけであたしだけこちらへ出てきたのでございますけれども……」 「しかしそれから二時間……」  と、鍋井弁護士も懐中時計を出してみて、 「これじゃ、なんぼなんでもあんまりお客さんに失礼じゃないかな。小森君、おや、小森君はおらんのか」 「ああ、お峯さんならいませんよ」  と、返事をしたのは川辺良介の妻の千代子である。 「あのひとは今夜、この席へ出る権利はないんだそうで、さっきもだいぶんぶつぶつこぼしてましたよ。堀口さんが出るのに自分が出られないなんてと……」 「権利もへちまもあるもんか。みゆきちゃん、おれといっしょに伯母さまをお迎えに行こうじゃないか」  と立ちあがったのは鶴子の|甥《おい》の加藤朝彦である。しかし、いとこのみゆきはアームチェアーからはなれようともせず、 「あたしはぜったいに、伯母さまのお気にさわることはしない主義なの。あなた、いらっしゃる勇気がおありなら、行ってらっしゃい」 「なるほど、それはいい心だけだ、よし」  と、いったものの、やっぱり気おくれするのか、ドアのところで立ちどまると、 「それでは、あたしがお供しましょう」  と、立ちあがったのは三枝子である。     鍵穴の中  一同が待っている応接室から、鶴子の居間まではかなりある。  いったい、この家は戦前華族がもっていたものだが、戦後二、三人の手を転々としたのちに、吉村鶴子の手に落ちたものである。  だから、そのときそのときのあるじの趣味で建てましたりしたものだから、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にいえばちょっと迷宮みたいな建築になっている。彼女の居間はその迷宮のいちばん奥まったところにある。 「いい|匂《にお》いだね。これ……」  廊下をならんで歩きながら、朝彦がふと気がついたように鼻をひこつかせる。窓はみんなしまっているはずなのだけれど、どこからともなく流れてくる薔薇の匂いが、そこはかとなく漂うてきて、甘い|想《おも》いをゆすぶるのである。 「はあ、もうそろそろ満開ですから……」  と、何気なく廊下の窓から庭のほうへ眼をやった三枝子は、 「あら!」  と、叫んで立ちどまると、窓のそばへ駆けよってガラスに|額《ひたい》をこすりつけた。 「ど、どうしたの?」 「いえ、あの、だれかひとがいたような気がしたものですから……」 「ひとがいたってどこに……?」 「はあ、あの、マダムのお部屋の窓の下に……」  そこかと見ると、斜めむこうに突き出した洋館の翼があり、そこがマダム吉村鶴子の住む一|画《かく》で、居間から寝室、浴室、トイレといっさいそろっている。 「伯母さんの部屋の窓の下に……?」  朝彦もぎょっとしたように、 「ひとってどんなひと? 男? 女?」 「いえ、あの、ほんのちらと見えただけですから……あたしの気のせいだったかもしれません。それとも|杢《もく》|衛《え》じいやかもしれませんわね」  杢衛じいやというのはバラの世話をするために雇われている庭番である。 「あっはっは、おおかたそんなところだろう。きみ、いやに神経質になってるね」  朝彦は|咽《の》|喉《ど》の奥でかすかに笑うと、 「さあ、行こう」  と、先に立って歩いていく。  やがて角をまがると、そこは渡り廊下みたいになっていて、その先がマダムの日常起き|臥《ふ》しする一|画《かく》である。  その翼の廊下へ足を踏みいれようとして、三枝子はまた、 「あら!」  と、叫んで立ちどまった。 「ど、どうしたの? 堀口君」 「ほら、そのドアがあいている……あたしさっきたしかになかから|挿《さ》し込み錠をさしこんでおいたのに……」  三枝子はたしかに神経質になっているのである。声がかすかにふるえていた。  朝彦は無言のまま半開きになったドアをひらいて庭のあちこちを見まわしていたが、やがてドアをしめると、注意深く挿し込み錠をさしこむと、 「このドア、ほんとにさっき挿し込み錠をさしこんでおいたの?」 「ええ、応接室のほうへ行く途中で……」 「きみ、さっきひと影を見たといったが、このドアの外あたりだったの?」 「はあ、あの、そういえば……」  朝彦は無言のまま三枝子の顔を見ていたが、やがてにやりと笑うと、 「あっはっは、おどかしちゃいけないよ。泥棒が外から挿し込み錠をあけるわけにゃいかんからね。きっときみが錠をさしこんだあとで、伯母さんがまたひらいたんだろうよ。どうしてきみは今夜、そんなに神経質になっているんだい」 「すみません」 「あっはっは、さあ、行こう」  まもなく鶴子の居間のまえまで来ると、 「伯母さん、伯母さん」  と、朝彦が軽くノックして、 「ぼくです。朝彦です。もうそろそろ出ていらっしゃいよ。みなさん、お腹をすかせてお待ちかねですよ」  しかし、いくら呼んでもノックをしても、なかなか鶴子の返事はなかった。 「変だなあ。伯母さん、この部屋にいないのかな」 「いいえ、そんなはずはございません。電気がついているところをみますと……」  吉村鶴子は女傑だが、そこはさすがに女だけあって、むだな点燈などについてはとても厳重なのである。かりそめにもひとのいない部屋に、電気をつけっぱなしにしておくような女ではない。 「そういえばそうだね。それじゃひょっとすると……?」 「え、ひょっとすると、とおっしゃいますと……?」 「伯母さん、発作でも起こして失神してるんじゃない?」 「まあ、そんな……」 「伯母さん、伯母さん、ここをあけてください。どうかしたんですか」  ドアには|鍵《かぎ》がかかっているらしく、ガタガタゆすぶってもあかない。  朝彦は思いついたように廊下にひざまずいて、鍵穴からなかをのぞいていたが、しばらくして立ちあがったその顔は、|真《ま》っ|蒼《さお》にとがっていた。 「堀口君、ちょっとのぞいてみたまえ」 「マダムがなにか……?」  ふるえ声でつぶやきながら、三枝子もかわって廊下にひざまずき、鍵穴に眼をあてがってみたが、すぐその|唇《くちびる》から鋭い悲鳴がとび出した。  鍵穴のちょうど正面に車|椅《い》|子《す》が横にころがっており、その車椅子のそばに、くの字型に倒れているのは、たしかにマダムの吉村鶴子である。  派手なガウンにネッカチーフで後頭部をまいたうしろ姿は、さっき三枝子が別れたときのままである。 「ああ、マダム、もし、奥さま」 「だめだ、だめだ、そんなにドアをたたいても。このドアの鍵ひとつっきゃないの」 「ああ、ちょっとお待ちになって……あたしの部屋に合鍵がございます」  三分ののち、三枝子が自分の部屋から合鍵をもって、朝彦の待っているドアのまえまで帰ってきたとき、 「泥棒! 泥棒! この野郎……」  庭のほうからけたたましく聞こえてきたのは、杢衛じいやの叫びである。     鍵 「あら、あれ、なんでしょう?」  三枝子はぎょっとしたようにドアの横で立ちすくむ。 「泥棒……と、呼んでいるようだね」  と、朝彦の顔色も変わっている。|蒼《あお》ざめて顔がひっつって、じっときき耳を立てている眼つきが異様に鋭くとがっている。 「泥棒! 泥棒! この野郎……だれか来てくれ!」  と、|杢《もく》|衛《え》じいやの叫ぶ声にまじって、なにかいい争うような男の声である。 「堀口君、やっぱり、きみのいったことが正しかった。泥棒がねらっていたんだね」 「朝彦さん、どうしましょう」  三枝子はそれほど|臆病《おくびょう》な性質ではなかったが、それでも場合が場合だけにちょっと|膝頭《ひざがしら》がこまかくふるえた。 「なあに、大丈夫だ。むこうには大勢ひとがいるんだもの。ほら!」  なるほど、杢衛じいやの声を聞きつけて客間にいたひとびとが駆けつけてきたらしく、がやがやと口々にののしりあう声がする。 「ほうらね。どうやら泥棒はとっつかまったらしいよ。|選《よ》りに選ってこんな晩に忍びこむなんて、よっぽどとんまな泥棒だぜ、あっはっは」  朝彦は|咽《の》|喉《ど》の奥で笑ったが、しかしその面上をかすめた|危《き》|懼《ぐ》の色は、いまも去らない。なんとなく、不安そうなおももちで、 「とにかく、三枝子さん、泥棒よりも伯母さんのことだ。|鍵《かぎ》は……?」 「はい、ここにございます」 「きみ、あけてくれたまえ」  三枝子が、鍵をガチャつかせているあいだに、朝彦はまた二、三度伯母の名を呼んでみたが、依然として返事はなかった。  ドアがひらくと、そこは鶴子の居間になっており、その奥に寝室がある。その居間の床に車椅子がひっくりかえって、そのそばに鶴子の体がのびている。 「伯母さん、ど、どうしました」  と、朝彦はそばへ駆けよって、床の上から鶴子の体を抱き起こしたが、そのとたん朝彦の口から驚きにみちた叫び声が噴出した。 「あっ、こ、殺されてる!」  と、思わず叫んで朝彦が手をはなしたからたまらない。ごろんと床の上にころがった吉村鶴子の顔を見て、「あっ!」と、三枝子は棒をのんだように、そこに立ちすくんだ。  朝彦がひとめ見て、殺されていると絶叫したのもむりはない。  色白の肥満型で、子供のようにぶよぶよとした肌をもつ吉村鶴子の咽喉のあたりになまなましく食いいっているのは、大きなふたつの親指の跡。それだけだってゾーッとするような|見《み》|物《もの》だのに、それにもましてものすごいのは鶴子の|形相《ぎょうそう》である。  くわっと見ひらいた両眼は天井の一角を凝視したまま動かない。それはもうガラス玉のように生命を失っているのだが、それでいて、なにかを見きわめようとするかのように|眼《ま》じろぎもしないでむなしい凝視をつづけている。顔は半分いびつになって、半ばひらいた唇のあいだから、少しのぞいた舌の先に、血がじっとりにじんでいるのは、どこかをかみ切っているのであろうか。 「伯母さん、伯母さん、しっかりしてください! だ、だれがこんなことをしたんですか!」  狂気のごとくというのは、こういうときに使用される言葉であろうか。朝彦は床の上にひざまずくと、いったん投げだした鶴子の体を抱き起こし、むちゃくちゃにゆすぶってみるのだが、そのたびに支える力を失った首が、がくんがくんとゆれる気味悪さ。 「堀口君、きみは、なにをぼやぼやしてるんだ! 伯母さんが殺されてるんだぜ。どうしてひとを呼びに行こうとしないんだ!」 「は、はい……」  朝彦の一|喝《かつ》をくらって、三枝子ははっと夢からさめたように正気に返った。いまにもベソをかきそうに顔をしかめて、 「す、すみません。それじゃ、マダム、もういけませんの」 「いけないか、いけなくないか、この顔色を見たらわかるだろう。とにかく、ベッドまでつれていきたいから、手を貸してくれたまえ」 「はい……」  三枝子がそばへ寄ろうとすると、 「あっ、いけない!」  と、朝彦がまたかみつきそうな声で一喝をくらわした。 「えっ!」  三枝子がおびえたように朝彦の顔を見かえすと、 「いや、ごめん、ごめん、きみのことじゃないんだ」  と、朝彦はようやく落ち着きをとりもどしてきたような眼で、あたりを見まわしながら、 「殺人があったときには、犯罪の現場をあまりいじくっちゃいけないんだ。気の毒だが伯母さんの体はこのままにしておこう。いいだろう」 「はあ……」  と、三枝子も無意識のうちに答えながら、ただなんとなくあたりを見まわした。 「堀口君、さっきこの部屋、たしかに鍵がかかっていたね」 「はい」 「いや、きみ、そう簡単に答えていいのかい。ぼく、つい夢中だったので、鍵がかかっていたように勘ちがいしたんじゃないかと思うんだが、きみはどうだい。きみがドアをひらいたんだが……」 「いえ、あの、鍵はたしかにかかっておりました。あたしがこの鍵をまわしたら、手ごたえがあってドアがひらいたんですから」 「ああ、そう。しかし、それにしては少し妙だね」 「なにがでございますか」 「だって、ほら、そこに鍵がおっこちてるじゃないか。それ、きっと、この部屋の鍵だろう」  なるほど、朝彦の指さすところを見ると、横倒しになった車椅子のそばに、鍵がひとつころがっている。 「はあ、これ、このお部屋の鍵のようですわね」  と、三枝子が身をかがめてその鍵を拾おうとすると、 「あっ、さわっちゃいけない。それより、堀口君、むこうへ行ってみんなにこのことを知らせてきてくれないか。大急ぎで警察と医者とを呼ぶようにって……」 「はい」  やっとその部屋からとびだした三枝子は、まるで悪い酒にでも酔ったように足もとがふらふらしていた。     インシュリン  こうして戦後派女傑のひとりといわれた吉村鶴子の最期は、まことにあっけないといえばあっけないが、あとにはいろいろの疑問が残った。  三枝子の急報により薔薇の別荘が大騒ぎとなり、さらに薔薇の別荘からの報告によって所轄警察から|藤《ふじ》|尾《お》捜査主任をはじめとして、大勢の係官が駆けつけてきて、いちおう捜査陣の態勢がととのったのは、もうかれこれ九時ごろのことだった。  まず警察医による|検《けん》|屍《し》が行なわれたが、それによると鶴子の死因は絞殺……と、いうより強い男の両手によって|扼《やく》|殺《さつ》されているのである。そして、時刻はだいたい八時前後というのだから、朝彦や三枝子が駆けつけるちょっとまえ、ということになるらしい。  それにしても、鶴子の居間と応接室とかなり距離があるにしても、ほかにも奉公人が相当大勢いるうちで、どうしてこういう惨劇が、だれにも気づかれずに演じられたのか。その点については、鶴子の主治医である滝博士が駆けつけるにおよんで、どうやら納得のいくような説明があたえられた。  相当ひどい糖尿病患者である吉村鶴子は、ときどきインシュリンの注射が必要であった。きょうも夕方鶴子が体の不調をうったえてきたので、滝博士が来診してインシュリンの注射をしていったのである。ところが鶴子の症状は近ごろとくに悪く、インシュリンの注射を必要とすることがかなり|頻《ひん》|繁《ぱん》なので、滝先生は患者の懇請をいれて、インシュリンのアンプルをひとつおいて帰った。  むろん、滝先生はくれぐれもその乱用をいましめて帰ったのだが、鶴子は先生が立ち去ったのち、また自分でインシュリンの注射をやったらしい。  インシュリンはそれが過大にあたえられるとき、患者は意識を失う場合がある。滝先生のおいていったアンプルは、もちろんそれほど強いものではなかったが、この直前に一本うったあとでもあり、鶴子のそのときの体の調子も手つだって、注射をうったあと失神状態に陥っているところを、絞め殺されたのではないかというのである。なるほど、これなら赤ん坊をひねるも同然で、だれも気がつかなかったとしても不思議ではない。  さて、この事件を担当することになった捜査主任の藤尾警部補によって、関係者一同のきき取りが行なわれることになったが、まず第一に呼び出されたのは堀口三枝子であった。  そこは先ほど親戚の連中が集まっていた応接室から、少しはなれた十畳敷きくらいの洋室で、とりあえずそこが捜査本部にえらばれたのである。  さすがに三枝子はものものしいあたりの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に、圧倒されるような感じだったが、それでも係官のなかに鍋井弁護士や和服姿の金田一耕助がにこにこしながらまじっているのを見ると、なんとなく気分も落ち着いた。三枝子はそこではじめてこの小柄で貧相な金田一耕助という私立探偵が、本職の警察官のあいだで、かなり尊敬されているらしいということを知ったのである。  最初、三枝子は、身分、年齢、姓名から吉村鶴子との関係などをきかれたのち、 「それじゃ、きみが生きている女主人を最後に見たのは何時ごろ?」 「はあ、六時三十分ごろと思います」 「とすると、滝先生がお帰りになったあとだね」 「はあ、滝先生がいらしたのは五時半ごろのことでございましたから」 「そのとき、ご主人についていたのは?」 「小森さんと、あたくしの、ふたりでございます」 「小森さんというのは?」 「小森峯子さまとおっしゃいまして、昔っからマダム……いえ、ご主人さまにお仕えしていらっしゃるかたでございます」 「おお、そう、ところで、きみはそのとき滝先生が、インシュリンのアンプルを一本おいていったのを知っているね」 「はい、存じております」 「ああ、そう、それでは滝先生がお帰りになってから、きみが最後にご主人と別れるまでのことを話してくれたまえ」 「はあ」  と、三枝子は頭を整理するように、ちょっと小首をかしげて考えたのち、 「先生がお帰りになったのは、もうかれこれ六時でした。小森さんは先生をお送りかたがた表の間のほうへ行かれました。もうそろそろお客さまがお見えになるころだったからでございます。そのあとであたくし、ご主人さまにお手つだいねがって訪問着に着替えました。その着つけができたのが六時半ごろで、そこであたくしがひと足先に応接室のほうへ出ていったのでございます」 「ご主人はまだ着替えもしてないようだが、どうしてそのとき、きみといっしょに応接室のほうへ行こうとしなかったの」 「はあ、理由はおっしゃいませんでした。しかも、自分が呼ぶまでぜったいに、だれも来てはならぬというきびしいお言いつけでございました。しかし……」 「しかし……?」 「はあ、あたくしがそのときうけた感じでは、ご主人さまはどなたかをお待ちになっていらっしゃったのではないかと……」 「どなたってだれ?」 「いえ、ただ、そんな感じがしただけで、はっきりとは、もちろんわかりませんけれど……」 「ああ、そう……」と、藤尾警部補がなにかきこうとするとき、 「ああ、主任さんちょっと」と、素早くさえぎったのは金田一耕助である。 「堀口さんにちょっとお尋ねしたいんですが、あなたが部屋を出るまえに、マダムは、自分で、インシュリンの注射をしましたか」 「いいえ、とんでもない。先生のお手当てでマダムは、すっかりお元気になっていらっしゃいましたから」 「しかし、マダムは自分で注射することがあるんですね」 「はあ、ご自分でもなさいますが、近ごろはたいていあたしがしてさしあげます。以前は小森さんの役だったんですが」 「それじゃ、もうひとつ、マダムは自分ひとりのときは、ドアに鍵をかけておく習慣があったんですか」 「いいえ、そんなことは……もちろん、夜おやすみになるときはべつですが……」 「ああ、そう、いやありがとう。それじゃ主任さん、どうぞ」 「ああ、そう、それじゃ堀口君に尋ねるがね、きみ、児玉健という男を知ってる?」     遺産相続人  三枝子は無言のまま藤尾警部補の顔を見ていたが、 「いえ、まだお眼にかかったことはございません。しかし……」 「しかし……?」 「はあ、そのかたのことなんですの。ひょっとするとマダムが待っていらっしゃったのではないかと、あたくしが思ったのは」  藤尾警部補は、鍋井弁護士や金田一耕助とはっと顔を見合わせると、 「どうしてそんなふうに思ったの? いや、きみは児玉健というのがどういう男だか知っている?」 「いいえ、存じません。いまも申しましたとおり、まだお眼にかかったこともございませんし、いったいどういうご身分のかたかも存じません。しかし……」 「しかし……? どうしたの?」 「はあ、なにか児玉健さんというかたが、こんどの事件に関係でもおありなんでしょうか」 「いや、それはともかく、こちらの質問に答えてもらいたいんだがね。つまり、児玉健について、きみの知ってるかぎりのことを話してもらいたいんだよ……」 「はあ、承知しました」  と、三枝子は不思議そうに眉をひそめながらも、かなりしっかりした調子で、 「あたくし、だいたい一週間に一度くらいのわりあいで、東京へ出ることになっておりますんですけれど、いまから二週間ほどまえ、東京へ出るときマダムからふたつの用件を依頼されましたの。ひとつは児玉健というかたへあてたマダムのお手紙を、東京のどこかから|投《とう》|函《かん》すること、それからもうひとつは同じかたへ現金書留で十万円お送りすること、このふたつでございました」 「なるほど」  と、藤尾警部補はまた金田一耕助や鍋井弁護士と眼を見かわせると、 「ところで、きみは、その手紙の内容というのは……?」 「むろんそれは存じません、厳重に封がしてございましたから。しかし、表書きは邦文タイプで、差出人の名前はございませんでした。それから……」  と、いいかけて、三枝子は急に気づいたように、さっと|頬《ほお》をあからめると、 「あら!」 「どうしたの?」 「いいえ、あの、このこと当分だれにもいわないようにって、マダムのご注文だったのですけれど……」 「いや、堀口さん」  と、そばから金田一耕助が口をはさんで、 「それはもうよろしいでしょう。ああしてマダムも亡くなられたんですから……それから……?」 「はあ、あの……、さっき申し上げた現金書留ですが、それも、東京のどこかの郵便局から出してほしい。ただし、差出人の住所や名前はでたらめにしておいてほしいといって、そういうご注文でございました」 「ああ、なるほど」  と、藤尾警部補はうなずいて、 「それから……? それからまだ児玉健という名前についてなにか……?」 「はあ、一昨日のことでした。あたくしやっぱり東京へ使いに出たんでございますけれど、そのときも児玉健さんとおっしゃるかたへのお手紙をおことづかりいたしまして、新橋から投函いたしましたが、それもやっぱり邦文タイプで上書きが打ってございました」 「マダムは、自分で邦文タイプを打つんだね」 「はあ、お部屋をごらんになるとわかりますけれど、邦文タイプをもっていらっしゃいますから……たいていのお手紙はあたくしが打つのでございますけれど、児玉健さんのお手紙だけは二度ともマダムがお打ちになりました」 「それで、児玉健なる人物だがね。マダムとどんな関係になるのか、きみは聞いてはいないかね」 「いいえ、べつに……マダムもおっしゃいませんでしたし、あたくしのほうからもちろんお尋ねしたりなんかは……」 「ああ、そう、金田一先生、それじゃ、あなたなにか……?」 「はあ……それじゃ、堀口さん、こんどはまたぼくの質問に答えてください」 「はあ、どうぞ」 「さっき朝彦君からちょっと聞いたんだけど、あなたがた、あなたと朝彦君とがマダムを呼びにいったとき、マダムの部屋のドアには|鍵《かぎ》がかかっていたそうですね」 「はあ、たしかにかかっておりました」 「それ、まちがいありませんか」 「はあ、ぜったいに」  金田一耕助は、ちらっと藤尾警部補に眼くばせすると、「しかし、三枝子さん、その証言はあなたにとって、非常に危険だということにお気づきになりませんか」 「まあ、どうしてでございましょうか」 「いえね。マダム自身がもってた鍵は、マダムの死体のそばに落ちてたでしょう。そうすると、マダムを絞殺した犯人は、どこからあの部屋を出たのでしょう。マダムを殺して部屋を出る。そして、マダムの合鍵で外からドアをしめたとして、それでは鍵はしめきった部屋のなかにあるはずはないでしょう。窓という窓は全部しまっていて、なかから掛け金がかかっていたんですから」 「はあ、でも、それがあたしにどういう関係があるとおっしゃるんでしょうか」 「いや、ですから、ここにこういう仮説が成り立つと思うんです。マダムの部屋の合鍵はたったひとつあって、それをあなたが保管していらっしゃる。だから、だれかあなたに相棒があって、その相棒がマダムを殺してドアに鍵をかけ、その鍵をあなたの部屋に返しておいた……」 「まあ」三枝子は、あきれかえったように眼を見はり、 「しかし……でも、……あたしに相棒なんかございませんけれど……」 「いや、それはそうでしょうけれど、あなたさっきこの家で泥棒がつかまったのをご存じでしょう」 「はあ、それは聞いてはおりますが……」 「その泥棒をいったいだれだと思います」 「まあ、あたくしの知ってるひと……?」 「そう、たったいまあなたのお話に出た、児玉健君」 「まあ……」三枝子はいまにも張りさけんばかりに眼を見はって、 「でも、でも、あたし児玉さんてかたに、一度もお眼にかかったことはございませんし、それにだいいち、あたくしマダムを殺そうなんて……」 「動機がないとおっしゃるんですか」 「はあ」 「堀口君」と、そのときそばからきびしい調子で口を出したのは藤尾警部補である。 「しらばくれるのはよしたほうがいいね」 「しらばくれるとおっしゃいますと?」 「まだあんなことをいっている。マダムが死ねばマダムの全財産はきみのものになるんじゃないか。鍋井先生の話によると、きみはマダム、すなわち吉村鶴子の養女として、最近正式に入籍されたそうじゃないか。今夜がその|披《ひ》|露《ろう》の宴だってことくらい、きみだって知ってるだろう」  堀口三枝子は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、藤尾警部補と、警部補のそばにひかえている鍋井弁護士の顔を見つめていた……。     三枝子の父 「養女……? あたしが……? マダムの……?」  堀口三枝子は、あきれたように一同の顔を見まわしていたが、急にヒステリックな声をあげて笑うと、 「また、おかしなことを。あたしがマダムの養女だなんて、どなたがまたそんなバカげたことをおっしゃいますの?」 「堀口君!」と、藤尾警部補がたしなめて、 「きみは鍋井弁護士のおっしゃることを、バカげたことだというのかね」 「まあ!」  と、三枝子はつぶらの眼を見はって、 「先生、まさか、そんな……いかにマダムが女傑だからって、無断でひとを養女になんかできないでしょう。あたし法律のことはよく存じませんが、それでは人権|蹂躙《じゅうりん》というものじゃございません?」 「堀口君」とさすがは職業柄、鍋井弁護士は少しも冷静さを失わず、 「しかし、きみは養女縁組同意書に、署名|捺《なつ》|印《いん》したじゃないか。だから、きみは法律的に完全に吉村鶴子の養女であり、したがってマダムの遺産相続人なんだよ」  三枝子はまたあきれたようにまじまじと鍋井弁護士の顔を見つめていたが、急にはげしく身ぶるいをすると、 「|嘘《うそ》です! 嘘です! そんなこと嘘です! あたしそんな書類に署名したおぼえはございません。みんなが寄ってたかってあたしを|罠《わな》に……」  幼いときから不幸になれた三枝子は、とかく、他人はつねに自分を不幸に陥れようとしているという、一種の被害|妄《もう》|想《そう》と強迫観念におそわれがちだった。この家へ来てやっといくらか心身の平衡を保ちはじめたやさき、いままたこの恐ろしい事件と疑惑に直面して、彼女の被害妄想症は猛烈に頭をもたげてくる。 「ああ、ちょっと!」  三枝子が叫びつづけようとするのを、鋭くさえぎったのは金田一耕助である。 「鍋井先生、吉村鶴子女史があなたに、堀口三枝子さんの養女縁組同意書を渡したのはいつごろのことですか」 「はあ、あれはいまから二週間ほどまえ、そう、今月の十一日のことでした。マダムが関係書類を手渡して、手続きを依頼されたのです。そのなかに堀口君の同意書もあったんですよ」 「そのとき、堀口さんもいましたか?」 「いや、マダムとわたしのふたりきりでした。そうそう、そのときマダムがいうのに手続きがいっさい完了しても、自分が発表するまではだれにも内緒にということでしたが、当事者である堀口君は、もちろん知ってるとばかり思ってましたよ」  鍋井弁護士もようやく、なにかそこに行きちがいがあったらしいことに気がついて、眉をひそめて下唇をかんでいる。 「堀口さん」と金田一耕助はしくしく泣いている三枝子のほうをふりかえって、 「あなた、いま泣いてる場合じゃありませんよ。ああ、なにか思い出したんだね。マダムに頼まれて署名捺印したことを」  三枝子は、泣きじゃくりながらも、素直にこっくりうなずいてみせた。 「それ、どういう書類だったの? あなたが署名捺印したのは……?」 「小森さん……小森峯子さんの謝罪状に保証人として署名捺印したんですの」 「小森峯子の謝罪状……? それ、どういう意味?」 「いえ、あの、小森さんがマダムの心証を害して、マダムがクビにしようとなすったのです。それで小森さんがさんざんお|詫《わ》びもし、詫び証文を一札いれたんです。マダムがそれへ、あたしに保証人になるようにとおっしゃって……」 「その詫び証文になにか変なことがあったと、思いあたるところがありますか」 「はあ、いま思い出したんですけれど、小森さんの詫び証文は厚紙の下敷きの上にひろげてあって、ふたところ、細いテープではりつけてございました。そのテープのひとつが小森さんの署名の左側に上下に走っておりましたので、あたしはそのテープの左側に署名捺印したのでございます」  ことの子細がわかってきたので、三枝子もしだいに落ち着きをとりもどしているが、しかしまだまだ驚きも大きいようだ。 「なるほど、で、それいつごろのこと?」  三枝子はちょっと小首をかしげたが、 「そうそう、五月八日、という日付が入っていたのをおぼえております」 「主任さん、その詫び証文、きっとまだマダムの部屋に残っておりましょうから、さっそく探してみてくださいませんか」  藤尾警部補はさっそく部下に命じると、 「そうすると、金田一先生、そのテープの右の小森峯子の詫び証文と、テープの左、すなわち堀口君が署名した部分とは、紙がちがっていたというのですか」 「まあ、そういうことになりそうですね。小森峯子の詫び証文の下に、もう一枚同じ紙質の白紙を重ねておき、それに堀口さんの署名捺印をとって養女縁組同意書を作りあげたという寸法でしょう」 「しかし、なぜまたそんなトリックを使ってまで、このひとを養女にしようと、いや、養女にしてしまったんでしょう」 「いや、主任さん、それはぼく自身が大いに知りたいところですよ。鍋井先生、あなたはご存じでしょうね」  それは、三枝子自身も知りたいところである。鍋井弁護士を見つめる三枝子の|瞳《ひとみ》には、|危《き》|懼《ぐ》と恐怖がおののいている。 「いや、堀口君がなんにも知らんらしいので驚いたが、堀口君、きみはおとうさんをおぼえている? 昭和二十年の春、当時のかぞえかたで、きみが十三の年に亡くなった堀口一義という人物だが……」 「はあ、あの、その父がなにか……?」 「その堀口一義というひとが、吉村鶴子女史の最初の夫、つまり鶴子さんの最初の婿養子だったんだ」     いとしわが子  それは三枝子にとっても大きなショックだったが、そこに居合わせた一同にとっても大きな驚きであった。金田一耕助も|咽《の》|喉《ど》がつまったような声で、 「その間の事情をもっとよくご説明ねがえませんか」 「承知しました」  と鍋井弁護士は威儀をとりつくろい、 「いったい、鶴子さんというひとは策の多い女性だったが、この話だけはまともに信用してあげてもよいと思っている」  と、そう前置きをしておいて、鍋井弁護士が打ち明けたのはつぎのような話である。  浅草の大きな洋酒問屋の三人娘の長女に生まれた鶴子は、|乳《おん》|母《ば》|日《ひ》|傘《がさ》で育った身分で、当然世間知らずであった。二十をすぎてからまもなく彼女が、婿養子に迎えたのが、堀口一義であった。  ところがこれがとんだくわせもので、鶴子の両親が生きているあいだこそ神妙にしていたが、両親があいついで死亡するとそろそろ地金を現わしはじめた。めぼしい財産をおのれの名義に書きかえてしまうと一義は鶴子に離縁を申し渡した。  離縁されて鶴子が気がついたのは、自分たち三人姉妹が一義のために、ほとんど裸にされていたということである。そのとき以来、鶴子の苦闘がはじまった。  当然、彼女は堀口一義なる男に深い憎悪と敵意をもち、|生涯《しょうがい》その消息から眼をはなさなかった。だから一義が節子という女性と結婚し、三枝子という娘をもうけたという事実も知っていた。  もし、堀口一義が戦後も生きていたら、この戦後派の女傑から手ひどい|復讐《ふくしゅう》をされていたかもしれない。ところが一義は空襲のために死亡し、まもなく妻の節子も|陋《ろう》|巷《こう》に窮死したということを、鶴子は聞いた。  こうして堀口一義とその一家のことは、いつか鶴子の念頭から忘れられていたのだが、昨年はからずも見た新聞に堀口三枝子なる名前を発見した。調べてみると、果たしてそれが自分をだました男と、|恋敵《こいがたき》のあいだに生まれた娘であることがわかった。そこで鶴子はそれとはいわず、堀口三枝子を手もとに引きとったのである。 「堀口君を引きとった動機について、鶴子さんははっきりいってましたよ。復讐のためであると。両親にたいする復讐を娘に加え、いじめて、いじめて、死ぬよりもっと|辛《つら》い思いをさせてやろうと、昔自分がなめさせられた屈辱と辛酸を、娘の上に加えてやろうと」  鍋井弁護士の話を聞いて、三枝子は、思わず身ぶるいをした。それは、鶴子の執念を恐れたからではない、鶴子をそういう心境に追いやった父の|罪《ざい》|業《ごう》の深さに思いいたったからである。 「ところが……」  と、鍋井弁護士は言葉をついで、 「鶴子さんのいうのに、あの娘……つまり堀口君ですね、あの娘は一年のあいだに自分の性格をすっかり改造してしまった。あんなに無抵抗で無邪気で、ひとの親切……たとえそれがみせかけの親切であっても……親切にたいしてあんなに感受性の強い娘を見たことがない。むろんあの娘も苦労したから、ひとを警戒するということを知っている。しかし、あの娘の警戒などもののかずではない。自分はいままで、だれからも、堀口三枝子という娘ほどの深い信頼をよせられたことがない。それが自分の心のトゲを、一本一本抜きとってくれたのだと……」  そこで鍋井弁護士はひと息いれると、 「それから、鶴子さんはこうもいってました。あの娘を引きとってから、いろいろ身の上話を聞いているうちに、自分が大きな思いちがいをしていたことに気がついた。つまり自分はあの娘の母を、自分から夫を奪った恋敵だとばかり信じこんで憎んできたが、じっさいは、あの娘の母も、自分と同じ、いや、自分などよりももっと手ひどい被害をうけてきたひとであることを知った。しかも、あの娘の母はそれに甘んじ、満足していたばかりか、生涯あの娘の父を愛しつづけていたという話をあの娘から聞いたとき、自分は大きなショックを感じたと……」  鍋井弁護士はそこで言葉を切ると、しずかに一同を見まわした。  弁護士の話の半ばから三枝子は泣いていた。声もなく、ただハンケチに顔をうずめて、シーンと泣いているのである。  金田一耕助をはじめ係官諸公も、一種の深い感動のなかに落ちこんでいる。 「ま、これは要するに、あのひとも寄る年波でなんとなく心細くなっていたのでしょう。それにあのひとは自分の肉親も、亡夫の親戚もぜったいに信用していなかった。そこで堀口君を養女として、老後をみてもらおうという気になったんでしょうが、それを堀口君に打ち明けてなかったというのは驚きました。しかし、考えてみると、あのひとの気性としては、手をとりあって泣きあうなんてまねはできなかったんでしょうねえ」  鍋井弁護士が感慨深げに語り終えたとき、さっきの刑事があわただしく帰ってきた。 「主任さん、おもしろいものが見つかりましたよ、ほら、これ!」  刑事が発見したのは小森峯子の詫び証文——むろん三枝子の署名はなかった——のほかに、興味ある数葉の写真である。  それはいずれもいまむこうにいる児玉健の写真だが、おそらく当人も知らぬまに撮影されたものだろう。しかも、それらの写真の裏側には、いずれも女の筆跡で、 「わが子健」 「いとしいわが子」 「若き日の過ちにわが腹をいためし子」 「健よ! |汝《なんじ》を捨てし母を許せ」 「神よ、この子を救いたまえ!」  などと書きつけてあるではないか。  一同は思わずぎょっとして顔を見あわせた。     数学の問題 「さっきもいったとおりでさあ。ぼかああの手紙にだまされて、こっそり裏口から吉村鶴子という女を訪問しようとしたところがまんまと泥棒にされちまったんでさあ」  健はすっかりふてくされている。かれはいままでの経験から、自分のような過去をもつ男は、だれにも信用されないことを知っている。ことに相手が警察の場合、いっそういけないことを知っており、それがかれの態度を硬化させる。 「いえね、児玉君」と、この尋問の役を買って出た金田一耕助は、できるだけ相手を刺激しないようにと警戒しながら、 「われわれがいま、きみにきいているのはそのことではないんだ。きみはあの離れ、ほら、母屋からでっぱったふた間つづきの洋館があるだろう、あの洋館の窓の下をうろうろしてたってえじゃないか」 「それがどうしたってえんです。ぼくがなにか盗んだとでもいうんですかい」  健はまだこの家で殺人事件があったのを知らないのである。だからいっそうこれしきのことに、なにを大騒ぎするんだと、むくれかえっているのである。 「いや、いや、そう早合点をしちゃ困る。きみはあのふたつの部屋をのぞいてみやあしなかったかと尋ねているんだ」 「ああ、のぞいてみたよ。どっちも窓のカーテンが少しめくれていたんでね。しかしぼかあ忍びこんだりしなかったよ。どっちの部屋にも女がいたんでね」 「なんだと!」  と、はじきかえすように尋ねたのは藤尾警部補である。金田一耕助もどきっとしたように、瞳をすぼめて健の顔を見すえ、 「どっちの部屋にも女がいたと?」 「ああ、そうだよ。あのふたり、姉妹かね。もっとも顔は見なかったが、おんなじ模様のガウンにおんなじ色のネッカチーフを頭にまいた女がふたりいたよ」 「おんなじ色のネッカチーフに、おんなじ模様のガウンを着た女がふたり……?」  さすがの金田一耕助も、この思いがけない健の陳述に、忙しく頭を整理しながら、 「児玉君、そのときの様子をくわしく説明してくれませんか。ふたりの女はいったいどういう様子をしていたかね」 「どういうたって……」  と、健はじろじろ金田一耕助の頭のてっぺんから足の|爪《つま》|先《さき》まで見まわしながら、 「べつに変わったことはなかったよ。ひとりは奥の寝室のベッドに寝ころがっていたし、ひとりは隣の部屋の椅子か車だかわかんねえもんのそばに立ってたよ」 「ひとりは奥の寝室のベッドの上に、ひとりは隣の部屋の車椅子のそばに……しかもその女は立ってたんだね」 「ああ、そう、なにか考えごとしてるふうだったよ。顔は見なかったけど……」 「それから……?」 「ううん、それきりさ。すぐそこをはなれたんだからな。ふたりとも吉村鶴子じゃねえと思ったからさ」 「どうして吉村鶴子じゃないと思ったの」 「だって、おれ、少し甘ちゃんだったかもしんねえけど、吉村鶴子って女がおれを救ってくれるんじゃないかって思ってたんだ。そして、その女ならおれの来ることを知っていて、ちゃんと身なりをととのえて待っててくれると思ってたんだ。あっはっは、おれもよっぽど甘くできているよ。だけど、おっさん、吉村鶴子ってどこにいるんだい? おれ、あの変てこな手紙のことについてきいてみてえんだよ」 「ああ、いや、そのことについてはまたあとで話そう。いずれにしてもきみは救われるよ。吉村鶴子さんがえらんでおいた、みめうるわしく、心やさしい婦人にね」 「おっさん、あんたからかってんのかい」 「あっはっは、いや、いまにわかるよ。刑事さん、そのひとをむこうへ——」  刑事が児玉健をつれて出ていったあと、金田一耕助はしきりにもじゃもじゃ頭をかきむしりながら、しばらく考えこんでいたが、やがてにっこりひとなつっこい微笑を鍋井弁護士にふりむけて、 「鍋井先生、これは非常に単純な数学の問題でしたね」 「単純な数学の問題というと……?」  鍋井弁護士もこの高名な探偵が推理の積み木の根底をつきとめたらしいのをさとって思わずにこにこ笑った。 「金田一先生、ひとつお得意の推理を聞かせてください」 「いやあ、これ、推理ってほどのものじゃありませんがね。まず第一に問題の部屋に鍵がふたつある。これをいいかえれば鍵はふたつしかない。そして、そのひとつを三枝子君が保管しており、あとのひとつを部屋のあるじの吉村女史がもっている。さて朝彦青年と三枝子君がその部屋へ行ったとき、ドアの鍵はたしかにかかっておった。しかも、三枝子君の鍵でドアをひらいてなかへ入ると、吉村女史が殺されており、しかも、部屋のなかに吉村女史所属の鍵が落ちている。したがって、そのドアをあけたりしめたりすることができるのは、三枝子君の鍵しかない。そこで、われわれは三枝子君をあやしいとにらんだ……」 「そう、はなはだ常識的ながら数学的でもありますね。2ひく1は1残る……」 「そうです。そうです。ところでこんどは観点をかえて、三枝子君の鍵にぜったいに異常はなかったと仮定する。とすれば、やはり2ひく1は1残るで、事件は吉村女史所属の鍵のなせるわざだということになる。ところが、朝彦君と三枝子君が最初居間を訪れたとき、ドアはたしかにしまっていた。しかも、三枝子君が鍵をもって引きかえしてきたときも、ドアに鍵がかかっておった。それでいて、三枝子君の鍵でドアをひらいてなかへ入ると、吉村女史が他人の手[#「他人の手」に傍点]によって絞殺され、しかも他人[#「他人」に傍点]は部屋のなかにおらず、おまけに吉村女史所属の鍵がそこに落ちている……これをどう解釈なさいます?」 「いや、まあ、わたしの頭脳テストはまたこんどということにお願いして、ひとつ金田一先生の名論を聞かせてください」 「いやあ、どうも」  と、金田一耕助はペコリと頭を下げると、 「つまり吉村女史は他人の手[#「他人の手」に傍点]によって絞められたのだから、他人[#「他人」に傍点]があの部屋にいたにちがいない。その他人[#「他人」に傍点]の姿が見えず、しかも、他人[#「他人」に傍点]は鍵穴から外へぬけだすわけにはいかないのだから、やはり吉村女史の鍵を使ってドアをひらいて外へ出た。そして、外からまた鍵をかけた……」 「しかし、その鍵は部屋のなかにあったじゃありませんか」 「だから、三枝子君といっしょに部屋へ入った人物が、鍵をもって入って、三枝子君の気がつかぬうちに床の上へその鍵をおいといた……」 「あっ、そ、それじゃ加藤朝彦が……」  と、藤尾警部補は、|拳《こぶし》を握りしめる。 「そう、それよりほかに解釈のしようがありませんね。ところがその朝彦君はここへ到着以来、ずっとわれわれといっしょにいた。つまりそこがこの事件の犯人……いや犯人どもの巧妙なところなんです。まず、だれか[#「だれか」に傍点]がインシュリンを注射して、吉村女史を|昏《こん》|倒《とう》させる。そのとき吉村女史を殺してしまうと注射した人物すなわちだれか[#「だれか」に傍点]に疑いがかかるから、その人物は吉村女史と同じガウン、同じネッカチーフを頭にまいて、鍵穴からのぞけば見えるところへ顔を見せないように倒れている。三枝子君大いに驚き、鍵をとりに走っているあいだに、だれか[#「だれか」に傍点]が吉村女史所属の鍵でドアをひらき、朝彦君を招じ入れる。朝彦君は男の手[#「男の手」に傍点]で昏倒している吉村夫人を絞め殺しだれか[#「だれか」に傍点]の倒れていたと同じ場所へ、同じ姿勢で吉村女史の死体を寝かせておく。だれか[#「だれか」に傍点]は逃げ出し、朝彦君がだれか[#「だれか」に傍点]にもらった鍵でドアに鍵をおろしたところへ、三枝子君が帰ってきたという寸法。これで朝彦君にはアリバイが成立し、だれか[#「だれか」に傍点]はだれか[#「だれか」に傍点]で、それが女であった場合、吉村女史の咽喉に残る親指の跡から、女ではむりだということになり……」 「畜生! 小森峯子だな!」  藤尾警部補はさっと立ちあがった。  それにしても、加藤朝彦はじつに無意味な殺人をやってのけたものである。伯母が三枝子を養女として入籍していると知っていたら、べつの方法をとったにちがいない。  吉村鶴子は、おそらくかつて捨てたおのれのいとし児、児玉健の将来を憂うるあまり、わが子の救世主として三枝子の愛情に期待したのであろう。健はいま鶴子のかつての愛人であった、鶴子の事業の支配人、杉本隆吉のもとで鍛えなおされているということだが、遠からぬ将来、鶴子の期待がみのることを祈って筆をおくことにしよう。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル14 |七《なな》つの|仮《か》|面《めん》 |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成14年1月11日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『七つの仮面』昭和54年 8 月30日初版発行            平成 8 年 9 月25日改版初版発行